稚内から北方世界を眺める〜少数住民の暮らしと文化〜

 

稚内は日本の最北端だが、その北方には広大な世界が広がっている!

 

主に„北方ユーラシア地域でフィールドワークを続けている。これまで行った主な調査地は以下の通りである。


日本と北方世界の関係ー歴史を遡るー

1995年に復活した稚内とコルサコフ(サハリン)間の定期航路をはじめとして、北海道とロシア(サハリン州)の間では、経済や文化交流が進んでいる。しかしながら、東西冷戦時代には、日本とソ連は対立して交流も冷え込んでいた。稚内市民には、1983年の大韓航空機撃墜事件のことが思い出されるのではないか。

遡れば第二次世界大戦で、日本はアリューシャン列島でアメリカと樺太でソ連と戦い敗北した。南樺太と千島列島はソ連のものとなったのである。アッツ島の玉砕(1943年)、9人の乙女が自決した真岡郵便電信局事件(1945年)といった悲劇もあった。

日本の南樺太統治時代(1905〜1945年)には、最盛期42万人の日本人が南樺太に居住していた。南樺太は漁業や製紙業などで栄えた。稚内は「稚泊航路」と「稚斗航路」の起点として樺太への玄関口となっていたのである。1936年に建設された北防波堤ドーム樺太航路の発着場で、道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防いでいた。アジアの新興国であった日本は大国ロシアに勝利して1905年にポーツマス条約を結んだ。その結果、南樺太が日本領となった。

明治時代には、日本政府は北海道の開拓を精力的に行っていた。アイヌの人々は自分の土地を追われ生活が困窮するとともに差別が深刻化した。ロシアとの間では、1855年に結ばれた日露和親条約によって樺太は日露両民雑居の地とされていたが、1875年に千島・樺太交換条約が結ばれ樺太を手放すとともに千島列島全島を手に入れた。

松前藩は蝦夷地を経営して利益を上げたが、アイヌの人々は迫害されて生活は困窮した。それにより何度か反乱が起こった。ロシアの南下に直面して、江戸幕府は数度の北方探検を行う。その中で間宮林蔵が間宮海峡を「発見」した。

北方世界では、サンタン交易と呼ばれる少数先住民族による交易活動が見られ、毛皮や絹が取引されて、清朝の物品が日本にまでもたらされた。

このように、日本とロシアは激動に満ちた近現代を送ってきたと考えられる。そんななか、北方には独自の文化や社会を築いてきた少数民族がある。これから紹介するのは、私がこれまで現地に入ってフィールドワークを続けている2つの少数民族である。

ロシア極東アムール川流域ナーナイ民族の文化と暮らし~古代岩画に魅せられて~

ナーナイ族とは、„ロシアのハバロフスク州・沿海州、中国の黒竜江省に分散居住する人口2万前後の先住民族。„ナーナイは自称で土地の人を意味する。ロシアではかつてゴリドと呼ばれ、中国では現在までホジェンまたは魚皮韃子(ユーピーターズ)と呼ばれた。„アルセーニエフの著書で黒澤明の映画にもなった「デルスウ・ウザーラ」でも知られる。
 
ナーナイ族の文化
„ナーナイ語は言語的にはツングース語系諸族に含まれる。„夏の家と冬の家のある定住集落。„干し魚を主食とする魚食生活。„シャーマニズムとミオの信仰。„生命樹・射日神話などの象徴体系。周辺諸民族と共通性を有し沿アムール文化と言われる。
 
私が調査に訪れたのは、„ハバロフスク下流70kmに位置する人口350人のナーナイ民族を主体とした村「シカチ・アリャン村」である。„1万2千年前のものとも言われる古代岩画で世界的に有名である。私は1995年に文化交流で初訪問し、2008年から2015年にかけて古代岩画の展覧会実施のため複数回調査で訪れた。
 
 
 
 
シカチ・アリャンの人々の様子を写真で紹介しよう。
 

漁撈と採集の生活

ナーナイ族の主な生業は、漁撈と採集である。

 


シカチ・アリャン村の古代岩画

„1万2千年前のものとも言われる世界遺産級の古代岩面画群であり100点以上が確認されているが、すでに失われたものも多い。„現在のナーナイ民族の祖先が制作したわけではないが、ナーナイ民族は古代岩画を大切に守ってきた。„ナーナイの射日神話、馬と首の神話に古代岩画の影響が見られる。„北海道余市のフゴッペ遺跡には舟に人が乗っている同じモチーフの洞窟画がある。
 
 
 

サハリンの先住民ウィルタとニヴフ

 

„どちらも古来よりサハリン(樺太)に居住する北方少数先住民である。„古くは狩猟・漁猟を生業としていた。また日本の江戸時代には大陸のナーナイなどとともに日本と清の貿易の仲介(サンタン交易)にも従事していた交易民である。„ニヴフ族は古アジア諸語に分類される固有の言語ニヴフ語を持ち、ウィルタ族はツングース系諸語に分類されるウィルタ語を持つ。
 
 

 

現代のニヴフの女性たち。白色は伝統色ではない。最近できたもの。
ニヴフの中でもエリートとされるSさん。
少数先住民言語による少数先住民に関するシンポジウムが2019年2月にユジノサハリンスクで開催された

 

オタスの杜を求めて

オタスの杜とは、日本政府が南樺太に設置した少数先住民族の居留地である。敷香(現・ポロナイスク)郊外の幌内川と敷香川に分れる三角州に立地しており、敷香市街とは敷香川によって隔てられて島の様な地形となっていた。

昭和初期(1926年頃)に先住民指定居住地となり、樺太の少数先住民族であるオロッコ(ウィルタ)、ギリヤーク(ニヴフ)、サンダー(ウリチ)、キーリン(エヴェンキ)、ヤクートの5民族の多くが集められた。

1930年(昭和5年)7月にはオタス土人教育所が開校し、1936年(昭和11年)にはオタス神社が建立された。少数先住民族に対して日本語教育等が行われたが、アイヌ以外の先住民族は戸籍上は樺太土人として内地人と区別されていた。

後述するゲンダーヌさんもオタスの杜の出身である。


 

2016年3月にオタスの杜を求めてユジノサハリンスクから列車で旅をした。

 


ウィルタのゲンダーヌ(北川源太郎)さんのたたかい

ゲンダーヌさんはオタスの杜の出身で日本語教育を受けて育った。戦況悪化の折、徴兵されて国境守備隊に編入された。敗戦後シベリアに抑留され、解放後に日本へ。稚内そして網走に居住した。

肉体労働で生計を立てながらウィルタ民族のための活動を行う。ウィルタ民族の資料館ジャッカ・ドフニの建設や合同慰霊碑キリシエの建立など。また、網走市で行われていた「オロチョンの火祭り」について、そのオロチョンという名称が樺太の先住民とはまったく関係の無いことを訴えたが、名称が変更されることはなかった。そして、戦時中の徴兵について、軍人恩給の支給を求めたが、日本国籍がないことを理由に退けられた。

いまゲンダーヌさんは、網走郊外の墓地に眠る。

樺太で戦争に駆り出され命を落とした少数民族の同胞を偲び、網走市天都山に建立した合同慰霊碑キリシエ。

<「キリシエ」に刻まれた字句>
„1942年突如招集礼状をうけ、サハリンの旧国境で そして戦後戦犯者の汚名をきせられ 
シベリアで非業の死をとげたウイルタ ニブヒの若者たち その数30名にのぼる
„日本政府がいかに責任をのがれようとも この碑はいつまでも歴史の事実を語りつぐことだろう
„ウリンガジ アッパ タアリシュ(静かに眠れ)

終わりに

ナーナイもウィルタもニヴフも他の少数先住民族と同じく、固有の言語・文化・生業を維持することが困難な状況に陥っている。

しかしながら、近年になって、2007年に「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されるなど、北方の少数先住民族の状況もわずかながら改善されつつある。

2020年春のウポポイ(民族共生象徴空間)の開館もその流れの延長線上にある。

少数先住民族の動向を注視するとともに、その将来にわたる幸福を切に願っている。

 
 
バニハ!(ナーナイ語)

About the author

ボルガ川のほとりにて(1999)

 稚内北星学園大学情報メディ学部准教授 井出晃憲(いで・あきのり)

  • 出身:京都大学
  • 専攻:観光学、文化人類学、集団力学
  • „略歴:学部時代は探検部に所属して世界各地を歩く。現在は主に北方ユーラシア地域でフィールドワークを続けている。
  • 担当科目:観光概論、観光メディア論、ユーラシア文化論、文化人類学など

井出准教授が引率された「サハリン大学生交流事業」の様子はこちらをご覧ください