それまでの印刷技術に改革を起こしたのは、ミュンヘンのアロイス・ゼネフェルダー(1778ー1834) [注5]だった。1798年、彼は木版、銅板のみであった従来の印刷技術に石を導入したのである。[注6] 従来の印刷術では、盤面を刻印していたが、ゼネフェルダーは全く異なる発想から、まず石の表面を研磨して平滑にした。平らな盤面に脂肪性物質(油性クレヨン、油性インキなど)で絵を描き、酸を含んだ水で洗うと描写部分は水をはじき、その他の部分は水分を保持する。さらにその上から油性のインキをローラーなどで与えると、水分を含んだ他の部分はインキを受け付けず、脂肪のついた部分にだけ印刷ローラーに含んだインクが残るという仕掛けである。作品はこの原版に用紙を伏せてのせ、圧力をかけて刷り取るのである。多色刷りの場合は色の数だけ原版を必要とした。平板で印刷できるため、クレヨン、ペン、筆、鉛筆など日常の道具で描くことができるようになり、それらの素描の効果をほぼそのままに再現できる利点を備えていた。しかし、この段階では求める結果とは左右逆に刷られてしまう。
左右逆の下絵を描く不便を克服する必要から、転写法が発明された。転写紙(和紙にでんぷん質を塗布したもの)に油脂質のクレヨンやインキで描画し、それを石版面に伏せて上から水を与え、圧力をかけ転写紙上の原画を版面に転写する方法で、これによって原画と同じ方向の印刷結果を得ることができた。
発明後、この技術はヨーロッパ各地に広まったが、大量に刷られた石版画は一部を除き粗製品が多く、石版に安手の複製印刷という印象を与え、石版画は芸術家の興味を引かなくなった。後にゴデフロイ・エンゲルマン(1788−1839)によって三原色の版による重ね刷りの技法が考案されたが、重ねた色が濁りがちで発色に難があり、絵画の複製手段としてのみ使われて、創作版画としては使われることはなかった。
1858年にはジュール・シェレが最初の彩色石版画<地獄のオルフェ>を製作した。
だが、その後、シェレ(1836−1931)が、容易に扱うことができ、さらに完全な色の転写をすることのできる、新しい石版法で大型色刷ポスターを製作し、創作版画とポスター芸術に多大な影響を与えた。これがポスター芸術の始まりである。
シェレは石版技術の欠点を補い、さらにポスターを芸術の域にまで高めた。シェレが複数製作した「ロイ・ファラー/フォリー・ベルジェール」シリーズのポスターは、1893年のもので、120.6×83.3cmの大きさがあり、従来のポスターとは比較にならない程、大型化に成功している。[注7] また、シェレの新しい色刷石版は複雑な陰影を求めず、印刷インキの色彩の平面を並べるだけの容易な方法なので、色の濁りが生じることがない。これは画家が直接製作できる技術であった。さらにシェレは、それまでのポスターの特徴であった文字情報を大幅に削減した。必要最低限の文字のみを画面上に鮮やかな色彩と特徴的な形で置く。
つまり色彩的に簡潔性と平面性を打ち出し、テキスト性を大幅に削減することによって、ポスターを新しい視覚芸術として作り変えたのである。
例えば次ページの作品は同じシェレのものであるが、上の「ロイ・ファラー」よりも30年近く前の1866年に芝居「ミニヨン」のために作られたものである。違いは一目瞭然で、「ミニヨン」のほうは芝居の数シーンが綴られていて、近くによってじっくり見ないと内容がつかめない。テキスト情報も非常に説明的である。

“読ませるポスター”から“瞬時に人を引き付け魅せるポスター”として一つの芸術作品へ変化したポスターの製作は、芸術家の製作対象として十分成立しうるようになった。
芸術ポスターの父といわれるシェレは、生涯に千以上のポスターを製作し、後にやはりポスター画家として独特の世界を作り上げたミュシャにも多大な影響を与えたのである。
また、次ページの「鉄道網ののび」のグラフが示すとおり、特に鉄道網が発展・充実した。鉄道網が発展することにより、国内の至るところまで人口、物資が大量に短時間で流通可能になった。パリ市内は鉄道だけではなく、電気に示される工業文明ともいえる地下鉄が1900年の万国博覧会にあわせて1899年に開通している。[注8] 人、ものの行き来が盛んになったのである。こうして急増した大衆が激しく移動することによって、文字情報が多く地味なポスターは忙しい人々の関心を容易に引くことができなかった。ポスターが人々の注目を集めるためには、文字情報を少なくし大きな絵を一つ描くなど簡潔にして注目を集めるしかなかったのである。
それでは、大衆的な表現とはどういうことをいみするのか。