(3)サラ・ベルナールとの出会い

ミュシャとサラ・ベルナールとの出会いは本当に偶然だった。

19世紀末、ミュシャは画塾アカデミー・コラロッシに通い、向かいにある簡易レストランの2階に住んでいた。1894年のクリスマス直前、ミュシャはレストランにたむろする芸術家のたまごの一人カダールに、印刷業者ルメルシェのところで急ぎの仕事の校正をしてほしいと頼まれた。クリスマス休暇をとる予定のなかったミュシャはその仕事を引き受けた。ミュシャはルメルシェでカダールの校正の仕事の他にもいくつかの仕事をこなし、ルメルシェとマネージャーのド・ブリュノフに有能で手早いデッサン家であることを認めさせた。ミュシャがサラ・ベルナールと出会うのはその後のことである。

ミュシャとサラ・ベルナールの出会いのエピソードはミュシャの息子ジリ・ミュシャが「アルフォンス・ミュシャ――生涯と芸術」のなかで次のように記録している。

ミュシャはクリスマスの日も朝早くからルメルシェの印刷所に出かけた。クリスマス・イヴのお祝いのあとで、パリの街はまだ目覚めていなかった。その日は1日校正の仕事をし、次の朝もつづけた。午後2時、校正の仕事が終わろうとしていたころ、ド・ブリュノフがサラ・ベルナールからの電話を伝えてきた。「来年1月4日から始まる芝居のポスターを元日までに広告掲示板に貼りたいので、至急制作してほしい」。そこで彼らはサラ・ベルナールの芝居を見るためにルネサンス劇場に出かけることになったが、ミュシャには燕尾服とシルクハットがない。ようやくのことで、燕尾服を貸衣装で借り、黒い普段着のズボンをはき、友人の古いトップハットをかぶり、スケッチブックを持ってルネサンス劇場の袖にやって来た。舞台では『ジスモンダ』が上演されていた。そのときミュシャは『ジスモンダ』の作者サルドゥにも会う。舞台が終わるとミュシャとド・ブリュノフはカフェに行き、ミュシャがテーブルの上にポスターのスケッチを描いてみせた。翌日、彩色を施したスケッチを印刷所に持っていく。ルメルシェはその作品に失望したが、時間がないのでそれをルネサンス劇場に送り劇場側の決定にゆだねることにした。28日、劇場側から電話があり、サラ・ベルナールがスケッチを気に入ったという。すぐに印刷にとりかかり、かろうじて元日の日にポスターを街に貼ることができた。[注14]

ミュシャとサラ・ベルナールの出会いはこのようなものだった。もしカダールがミュシャにルメルシェの仕事を頼まなかったら、ミュシャがクリスマスに休暇を取っていたら、二人は出会わないのである。ミュシャはサラ・ベルナールの依頼で仕事をして、それをサラ・ベルナールは気に入ったから印刷することができたが、もしサラ・ベルナールがこれを気に入らなければやり直しか、断られていたのである。これ以降、ミュシャはサラ・ベルナールの信頼を受けて、彼女のためのポスターを制作していくことになる。ここに、以前クーエン伯爵の仕事をひきうけた職人芸術家としての立場と同じ構図が成立する。すなわち、「芸術家は、発信者である。依頼者の意思を極力尊重し、受け入れ、自分の作品を通して、それを大衆に提供する」という構図である。

ミュシャがサラ・ベルナールのために最初に描いたポスターは『ジスモンダ』である。この『ジスモンダ』によって突然有名になったミュシャはあまりの急な活躍に人々にいろいろな噂を広められた。彼自身は否定したが、ミュシャはハンガリーのプスタ(草原)出身のジプシーだと言う噂もあったらしい。ジプシーは差別的な意味合いをもち、当時の人々はフランスより東にある地域の出身者はオリエント人で、スラヴとビザンティンはほとんど同一視されていた。『ジスモンダ』はそんな文化風土の中で熱狂的に賞賛された。

ミュシャにとってもサラ・ベルナールにとっても、このポスターは幸運をもたらした。ミュシャはこの作品によってポスター作家の地位を獲得し、サラ・ベルナールはルネサンス劇場の経営の任もあったが、この芝居の成功によって客足を確保することができた。

ミュシャは『ジスモンダ』の後、サラ・ベルナールと契約をし、ほぼ1年に1枚のペースで6枚の芝居のポスターを描き、その他に彼女をモデルにしたものを2枚以上描いた。

これらサラ・ベルナールのポスターは、ほとんどが縦200cmもある大きなもので中の人物はほぼ等身大である。しかし『トスカ』だけは100cmほどと小さく、もともとこの大きさなのか、大きなものが見つかっていないのか定かではない。ミュシャはこの7枚のポスターの全てを、中央に大きくサラが扮する役を描き、見るものにそのキャラクターとそのシーンを印象付けた。ミュシャも実際にその劇を鑑賞し研究していたようである。