1.仮面の裏側 - 『白鯨』における自然の考察
『マグのリア』 5 (明治大学アメリカ文学研究会)
1991年7月
本論ではエイハブとイシュメイルの「自然」(Nature)観の相違に着目し、『タイピー』から『白鯨』にいたるまでの間で、メ
ルヴィルの中で「自然」が「明るく善なるもの」のイメージから「暗く悪を含むもの」へと転換していった過程を考察する。そ
してメルヴィルの「自然」観が、「自然」とは不可視の暗部を仮面で隠している存在ではないかと結論を導
き出す。また彼 の「自然」観がエマソン等の超絶主義者の楽観的な「自然」観とは異なることを指摘する。
2.The Duality of Nature - A Study of Melville's
Moby-Dick 修士論文 (明治大学) 1992年1月
メルヴィルの持つ「自然」=「神」に対する二元的なイメージをエイハブ、ピップ、それぞれの「神」に対する対峙の方を分析することによって明らかにする。解明しがたい「真理」を追究する者に対して、神は「死」の宣告もしうるものであり恐ろしい力で襲い掛かってくるものであるというメルヴィルの「神」に対しての疑念を明らかにする。
3.「頭」と「心」の葛藤 - 「書記バートルビー」試論
『明治大学大学院紀要』第28集文学編 1992年2月
「書記バートルビー」はバートルビーの真実の探求の物語であるが、本論では1人称の語り手である弁護士「私」のバートルビーへの対応に着目し、彼の偽善性を暴き出す。「私」は自分の行為を最後まで偽善的なものであると気づかないが、それは商業主義社会の中で彼がしらずしらずと「心」を失い「頭」だけで利害関係を計算するようになってしまったからである。メルヴィルも本当に自分の書きたいものと、売れるものを書くことの間で葛藤をしていた。「心」ではなく「頭」で物事を解釈しようとしている商業主義社会へのメルヴィルの批判がこの作品の中に読み取れることを指摘する。
4.奴隷制度とメルヴィル - 「ベニト・セレーノ」を中心に
『マグのリア』6 (明治大学アメリカ文学研究会) 1992年8月
メルヴィルの奴隷制度批判が南部の奴隷州だけに向けられていたのではなく、奴隷制度廃止を訴えていた北部の人間にも向けられていたことを本論は明らかにする。北部の人間は道義的に悪だということで、奴隷制度を批判していたのであり黒人の人間性を尊重していたわけではないというメルヴィル独特の奴隷制批判を、当時の北部の現状を分析し新歴史主義的アプローチで解明する。
5.意識と無意識の狭間で - 『ピェール』試論
『稚内北星学園短期大学紀要』6 1993年10月
『白鯨』において「自然」を二元的に捉えているメルヴィルは、『ピェール』においても「真理」と「虚偽」という二項対立の間で苦しむ主人公を描きだしている。その対立の中でなにが「真理」であるかを判断するのは自己自身である。ピェールはある意味でメルヴィルの壮大な失敗作と言えるが、自己自身すら理解不能になるピェールをメルヴィルが描くことで、作家自身が苦悩し出口をなくしてしまっていることを本論では明らかにする。
6.物欲しげな語り手 - 「コケコッコー」論 『スカイ・ホーク』10
(明治大学メルヴィル研究会) 1995年4月
1人称の語り手「私」の言動を通して、無意識のうちに社会の歯車の中に組み込まれてしまっている人間対しメルヴィルが警告を発し、物事を単一的に見てしまう楽観主義者を批判しているということを論証していく。さらに自己の欲求のために嫌悪していた金の論理を使ってしまう「私」が、拝金主義の社会の中で生きる人間の身勝手さと弱さを象徴する人物として描かれていることを明らかにする。
学会発表等
1.『乙女たちの地獄』にみる資本主義批判 北海道アメリカ文学会研究談話会 1994年5月
2.The Bell-Tower"における機会文明批判 第6回日本アメリカ文学会北海道支部大会 1996年9月
3.The Bell-Tower"における機会文明批判 日本アメリカ文学会第35回全国大会
1996年10月