A.シュッツの〈三つの公準〉は破綻しているのか
 

張江洋直
HARIE Hironao

*関東社会学会第48回大会「プレナリー・セッション:社会学の方法と対象」(2000年6月10日/会場:東洋大学)報告レジュメ

 目次

0.基本的な問

1.この問が成立するための前梯

2.「二次的構成論」

3.シュッツの基本的な理論機制−−二つの〈態度性〉

4.志向性の変容としての「日常生活の世界」と「科学的世界」

5.「観察者」としての「社会科学者」

6.行為者モデルあるいは「人間模型」

7.「三つの公準」−−「一次的構成概念」と「二次的構成概念」との差異と連関

参考文献
 
 
 

0. 基本的な問い
「主観的な意味構造を客観的知識の体系によって把握することは、いかにして可能であろうか。」(Schutz[1962=1983:88])

1.この問いが成立するための前梯
a) 論理実証主義あるいは行動主義との対質………社会科学の「対象」と「方法」
ィ)「現代の社会諸科学は、深刻なジレンマに直面している。或る学派は、構造のうえで或る基本的な相違が存在していると考える。〔この学派は〕そうした知見から、社会科学と自然科学は完全に異なったものであるという誤った結論に到達している。……それに対してもう一方の学派は、これまでに多大の成果を収めてきた自然科学(とりわけ数学的な物理学)の方法だけが唯一の科学的方法であると自明視し、そうすることによって、自然科学者が彼の思惟対象である『行動』を考察するのと同じ方法で、人間の行動を考察しようとする。」Schutz[1962=1983:52]以下略記し、頁数のみを提示する)
ロ)「社会科学の対象は人間の行動である、すなわち人間行動の諸々の形態、組織、ならびに所産が社会科学の対象である……。しかしながら、人間の行動は、自然科学者が自らの対象を研究するのと同じ方法で研究されるべきであるのか、それとも社会的世界のなかで自らの日常生活を営んでいる人びとによって経験されるものとしての『社会的現実』を説明することが、社会科学の目標であるのか」云々(Schutz[86])
b)何が問題なのか−− 学問論的問題設定
  決定的に確実にされた知識を構成しうる究極の確実な出発点、つまり社会科学にとって「アルキメデスの点」は存在しうるのか?また、あるとすればそれはなにか?
ィ)〔A.N.ホワイトヘッドによれば〕「日常生活のなかで知覚されたことがらでさえも、単純な感覚呈示(a simple sense presentation)以上のものである。」(Schutz[49])
ロ)「純然たる事実(facts, pure and simple)というものは、厳密にいえば存在していない。事実とはすべてはじめから、われわれの精神の諸活動によって全体の文脈から選定されたものなのである。」(Schutz[51])
* ここでシュッツは、Principia Mathematica の一方の共著者であるホワイトヘッドに「依拠」するかたちをとりながら、他方の共著者である B.ラッセルの「感覚与件(sense-datum)」という「アルキメデスの点」を批判しているとみることができる。しかも、これはたんにラッセルに留まるものではなく、よりひろく「経験的基礎づけ主義」(野家[1993:238])への批判として捉えられよう。では、もう一方の「基礎づけ」の途である「演繹的正当化主義」(野家[1993:238])にシュッツは与するのだろうか。だが、シュッツが相互主観性をめぐるE.フッサールの超越論的領野での構成という問題機制に最終的には反意を呈していることは、すでに周知のことがらである。その点からすると、ここでのシュッツの理論的境位とは、「認識にアルキメデスの点はありえないこと」(Bollnow[1970=1975:21)と端的に表すことができよう。ここからは、シュッツが「ディルタイの『客観的精神』、ハイデガーの『日常性』……など、一般に解釈学的立場に立つ」(丸山[1987:52])といってよい。

2.「二次的構成論」
a)社会科学の特性
・「自然科学者が取り扱うべき事実、データ、出来事は、たしかに彼の観察領域の内に存在する事実、データ、出来事である。だがこの観察領域は、その内に存在する分子、原子、電子にとってはいかなる『意味』も有してはいないのである。/それに対して社会科学者の直面する事実、データ、出来事は全く異なった構造を有している。彼の観察領域である社会的世界は、その本質からして無構造ではない。すなわち社会的世界は、そのなかで生活し、思考し、行為する人びとにとって、或る特定の意味と関連性の構造を有している。それらの人びとはこの社会的世界を、日常生活の現実についての一連の常識的な構成概念によって、社会科学者に先立ってあらかじめ選定し、解釈している。」(Schutz[52])
b)「二次的構成論」
ィ)「社会科学者の構成する思惟対象は、人びとの間で自らの日常生活を営んでいる人の常識的な思惟によって構成された思惟対象と関係し、そしてそれに基づけられている(be  fouded upon)。したがって社会科学者の用いる構成概念は、いわば二次的な構成概念である。」(Schutz[52])
*ここでのシュッツは、社会科学の学問論的設定を、社会科学の〈対象〉の特性から直ちに帰結するものとして論述している。それゆえ、この論述仕方だけからすれば、シュッツ基礎論が社会科学の〈対象〉の特性をもってのみ、その学的性格を規定づけているとみることもできる。だが、すでにみたようにシュッツは、通常は科学(帰納法)の客観性や真理性を保障する基盤とみなされている「事実」や「データ」の被解釈性を指摘している。そこには、自然科学と社会科学との差異はない。まして、すでに周知のように、彼は「多元的現実論」にあって「日常生活の世界」を「至高の現実」と呼び、そこに特権的な基盤機能(意味基柢)のはたらきを認めている。そうであれば、シュッツの「二次的構成論」の論理機制は、たんに〈対象〉の特性に規定されたとするのではなく、むしろ後期フッサールが呈示した学問論としての「生活世界論」の理路において捉えるべきであろう。
ロ)フッサールの「生活世界論」の要諦
 「自然科学者は、このように客観的なものに興味を向け、活動しながらも、他方では、主観的?相対的なものは、彼にとってどうでもよい通過点ではなく、それはあらゆる客観的検証に対して理論的?論理的な存在妥当を究極的に基礎づけるものとしての機能をもち、したがってまた明証性の源泉、検証の源泉としての機能をももっている。」(Husserl[1976=1974:177])
*ここで留意されなければならないのは、フッサールが学知(エピステーメ)と憶見(ドクサ)との価値?位置関係を完全に転倒させていることである。近代の認識論の基本了解では、ドクサはエピステーメにとって「単に主観的?相対的なもの」であり、克服されなければならない「侮蔑的な意味あい」を担わされてきた。だから、それは「通過点」とされるのだ。だがフッサールによれば、「生活世界」こそが「根源的な明証性の領域である」(Husserl[1976=1974:179)。だが、さらに留意さなければならない。なぜなら、「生活世界」とは近代認識論が希求してきた「アルキメデスの点」と同義ではないからである。ここでの要諦は、私たちが世界に謂わば内属しておりすでにつねに〈世界の内に生きつつ世界を意識する〉という、人間存在の基柢的な在り方と学問論との通底にある(張江[1991])。

3.シュッツの基本的な理論機制−−二つの〈態度性〉
a)「経験のストック」−−解釈図式
ィ)「この世界は、われわれが生まれる以前から存在している世界である。すなわちこの世界は、われわれの先行者である他者たちによって、すでに組織された世界として経験され解釈された世界である。いまやこの世界は、われわれの経験と解釈にとっては所与のものである。……それら諸々の経験が、『知用可能な知識(knowledge at hand)』という形態をとることによって〔世界を解釈する際の〕準拠図式として機能する。」(Schutz[54])
*「経験のストック」は、『社会的世界の意味構成』にあっては「経験の全体連関」とも呼ばれ、それは「なによりもまず受動的な所持という仕方で身近にすぐ手前にみいだされる」(Schytz[1932=1982:106])と指摘されている。これは「経験のストック」が体験にもつ超越論的本性を端的に指示している(張江[1999])。[また、後述のb)も参照]。
ロ)「人は、自らの日常生活のいかなる時点にあっても、生活史的に規定された状況の内に、すなわち自らが定義した物理的環境および社会的?文化的環境の内に、自らを見出す。……そうした状況の定義とは、〔それを行う〕人の以前の経験のすべてが、その人の利用可能な知識の集積(stock of knowledge at hand)という習慣的な所有物の内に組織化されることによって沈殿したものである。……生活史的に規定された状況に含まれているあらゆる要素のうちで、当面の目的に関連がある諸要素を規定するのは、ほかでもないその当面の目的である。」(Schutz[56-7])
*ここでシュッツは構成された意味連関が意識に沈殿し「経験のストック」を形成することを示すとともに、「関心」や「当面の目的」が「解釈図式」をそのように顕現化せしめる機制について語っている。
b)「単定立的(monothetisch)」と「複定立的(polythetisch)」な〈態度性〉
・「この経験連関は、新しい体験のたびに増大し、それぞれのいまそのようにには、すでに経験の一定のストックが存在することになる。このような経験的対象の……ストックは、もともとこれが産出される経験的作用の複定立的な総合のなかで構成されたものである。しかし、ひとたび経験されたものは、どのいまそのようににおいても、私の意識にはすでに構成された対象として前もって与えられる。」(Schutz[1932=1982:105])
*「単定立的」と「複定立的」というフッサールの「発生的現象学」に由来する対概念を用いてシュッツが示すのは、意味構成をめぐる反省にみられる2つの〈態度性〉である。それゆえ、この差異はそのまま意味論上に連続する。それは、「意味の構成過程に目を向けるか(「主観的意味」)、それともすでに構成済みの意味形象に目を向けるか(「客観的意味」)という区別である。」(丸山[1985:137])この差異づけは他の概念用具にもみられる。
c)「行為経過類型」と「パーソナル類型」
イ)「(主観的な)パーソナル類型と(客観的な)行為経過類型を区別して考える場合、構成概念の匿名性が増大すれば、その結果、後者が前者を乗り越えるようになる」(Schutz[67])。*シュッツがここで示す「親密性と匿名性」(Schutz[64])という社会関係の指標軸はそのまま「(純粋な)われわれ関係」あるいは「共在者」と「彼ら関係」あるいは「同時代者」さらに「先行者」「後続者」の基軸に重ねられる。それはすでにみた「複定立的?単定立的」、それゆえ「主観的意味」?「客観的意味」との基軸にも対応する。
ロ)「意味の主観的解釈は、所与の行為経路類型を規定している諸々の動機を明らかにすることによってのみ、可能である。そして、或る行為経過類型をその基層にある行為者の類型的な諸動機に帰属させることによって、われわれは、パーソナル類型の構成に到達する。……共在者たちの間でのわれわれ関係にあっては、他者の行為経路、行為の動機(それが明示されている限りで)、ならびに彼の人格(明示的な行為に繰り込まれている限りで)は、直接性において共有される。したがって、そこで構成されるパーソナル類型は、きわめて低い程度の匿名性と高い程度の内容充実性を示すであろう。」(Schutz[75])
*こうした「匿名性の増大が内容充実性の減少を伴っていること」(Schutz[67])の指摘の背後に、『意味構成』において為された「他者理解」の様式あるいは「他者志向」の変容分析をみることができる。ここでも、すでにみた「単定立的」?「複定立的」といった〈態度性〉の差異はそのままに妥当している。「共在者」という社会関係にあっては、他者志向の区別でいえば「汝志向」それゆえ「現存在」という仕方で他者は現出している。この対比でいえば、「同時代者」では、匿名的であり「彼ら志向」それゆえ「相在」という仕方で他者は現れる。前者では、他者との「体験流」の同時性が可能とされるが、後者にはそれがない。それは、謂わば共体験の可能性がそのはじめから閉ざされているからである。

4.志向性の変容としての「日常生活の世界」と「科学的世界」
・「人は日常生活において、自らを社会的世界の中心とみなし、その社会的世界を様々な親密性と匿名性の程度に応じて、自らの周りに層を成す形で分類している。だが社会科学者は、科学的観察者の私心のない態度をとろうと決意することによって……社会的世界における自らの生活史的状況から自分自身を解き放つのである。」(Schutz[90])
*日常生活の「実践的関心」から科学的な「認知的関心」への態度変更は、社会的世界における本源的なパースペクティヴ性を脱中心化する。シュッツが「社会科学者は、社会的世界の内にいかなる『ここ』ももってはいない」(Schutz[92])というのも、この意味においてである。むろん、科学的活動といえども「社会的世界の内部で生起するそれ以外のすべての活動のなかに在るひとるの活動である。」しかし、「社会的世界の内部に在る、科学と科学をめぐる諸問題を論じることと、科学者が自らの対象に向かう際に採用すべき独特の科学的態度とは、それぞれ別のことがらである。」(Schutz[90])

5.「観察者」としての「社会科学者」
イ)主観的解釈の「公準に従おうとすれば、たとえ全く異なる関連性の体系に導かれているとはいえ、日常生活の世界のなかで社会的相互行為のパターンを観察する観察者と類似した仕方で、研究を進めなければならない。」(Schutz[93])
ロ)「観察者が彼ら(相互行為の当事者)の行為を理解しようとすれば、彼は[彼らのものと]類型的に類似した状況的背景における類型的に類似した相互行為パターンについて自らの有する知識を利用せねばならず、また[彼らの]行為経過のうちで彼の観察の及びうる局面をもとに、行為者の動機を構成せねばならない。……日常生活における観察者にとっては、……行為者の行為の主観的な意味を把握しうる単なるチャンスが存在しているにすぎないのである。そうしたチャンスは、観察される行動の匿名性と標準化の程度が高くなるにつれて増大する。」(Schutz[77-8])
*観察者は「被観察者たちに対して『波長を合わせ』ているが、被観察者たちは彼に『波長を合わせ』てはいない。」(Schutz[77])それゆえ、「観察者が彼らの行為を理解しようとすれば、彼は類型的に類似した状況的背景における類型的に類似した相互行為パターンについて自らの有する知識を利用せねばならず、また行為経過のうちで彼の観察の及びうる局面をもとに、行為者の動機を構成せねばならない」のである。ここでシュッツは、観察者が自らの有する知識を用いて、行為者の動機を構成したとしても、それが必ずしも行為者の「完遂された行為」(Schutz[69])の「主観的な意味」すなわち「意味の構成過程」を把握できたことになるとはかぎらないといっていることになる。なぜなら、そこには、それが可能となるチャンスがあるだけなのだから。だが、ここで留意すべきなのは、むしろそうしたチャンスが、「観察される行動の匿名性と標準化の程度が高くなるにつれて増大する」という指摘である。いい換えれば、「観察される行動」がより類型的であればあるほど、類型的に「主観的な意味」を捉える可能性は増大するのである。というのも、そこで想定されているのは「類型的に類似した状況的背景における類型的に類似した相互行為パターン」だからである。だが、そこで把握されたものは、類型的な、それゆえ「客観的な意味」ではないのだろうか。しかし、この設問は、カテゴリーの混乱からやってきたものに過ぎない。というのも、ここで「類型的」というのは、相互主観的に妥当すると観察者に想定された行為経過類型に基づいて相互主観的に適合的と推論された、「行為者の動機」の構成過程を指示しているからである。それを類型化過程といってもよいだろう。しかも、それがいかに類型的であろうとも、それはあくまでも行為者の「完遂された行為」の「動機」の把握であるかぎり、それは「主観的意味」なのである。ここで「匿名性と標準化の程度が高くなる」というのは、「内容充実性」が減少し、それゆえ、一般性がより増大することを意味している。

6.行為者モデルあるいは「人間模型」
・「科学的観察者は、……諸々の類型的な行為経路パターンに、ひとつ[または複数]のパーソナル類型、すなわち意識が付与されていると彼の想像する行為者モデルを、整合的に帰属させる。……それら行為者モデルは、日常生活の社会的世界において……いかなる生活史も、つまりいかなる歴史ももってはいない。……社会科学者は、自らの目的に応じて操作するために、そうした人間型あるいは人間模型を創造したのである。」(Schutz[94])
*「人間模型」は社会科学者によって構成される。だがそれは、そもそも「日常生活の社会的世界において自らの生活史的状況のなかで生活している人間」がすでにつねにその「同時代者」との社会関係において遂行している類型化あるいは理念化にその源基があるといってよい。そこに差異があるとすれば、社会科学者はその構成に関して「特別な方法を展開しなければならない(Schutz[78])」ということだけである。

7.「三つの公準」−−「一次的構成概念」と「二次的構成概念」との差異と連関
a)「論理一貫性の公準」
・「科学者の考案する諸々の構成概念から成るシステムは、最高度の明晰性と判明性をもった概念枠組によって基礎づけられたうえで、確立されていなければならず、またそれは、形式論理学の諸原則と完全に両立するものでなければならない。」(Schutz[97])
*ここで留意しなければならないのは、シュッツが科学を「すでに組織化されている知識の領野」(Schutz[90])と捉えていること、それゆえ、明示的に述語化されていないとはいえ、すでにつねに科学者の背後には〈科学者集団〉が想定されていることである。ある科学者が「自分に特有の科学上の問題を選定し、自らの科学上の決定を下すことができるのは、ただこういった組織化されている知識の領野がつくる枠組の内部においてだけである」(Schutz[91])。
b)「主観的解釈の公準」
・「人間行為を説明しようとすれば、科学者は、……個人の精神についてどのようなモデルが構成されうるのか、観察された諸々の事実を理解可能な関係におけるそうした精神の活動の所産として説明するためには、どのような類型的な内容をそのモデルに帰属させるべきなのか、これらのことを問わなければならない。」(Schutz[98])
*こうした問いの帰結が、「社会科学は、社会的現実のなかの人間行動とその常識的な解釈を取り扱わねばならないとする立場」であり、それは「企図と動機の全体系、および関連性と構成概念の全体系の分析を必要とする。そのような分析は必然的に、行為とその背景を行為者の観点から解釈するという主観的な観点に言及せざるをえない。」(Schutz[87])
つまり、「主観的解釈の公準」とは、「諸々の主体が社会的世界の内部で行なう諸々の活動に対して、そしてまた、行為者が企図、利用可能な手段、関連性などの体系といった観点から行なう自らの活動の解釈に対して、われわれはつねに言及することができる??また或る一定の目的のためには、それらに言及しなければならない」(Schutz[88])ということである。この点に関しては、既述の「5.『観察者』としての『社会科学者』」を参照。
 だがシュッツは、経済学を例示して、「主観的な意味構造に言及しないままに、……諸現象を研究している」(Schutz[87])事態を認める。だがそれは、「知的速記術以外の何ものでもないという」(ibid.)。つまり、「そこでは、当該の人間行為の基層にある諸々の主観的な要素は、自明視されているか、さもなければ当面の科学上の目的??考察中の問題??にとっては関連がないとみなされ、そるゆえ考慮の対象からは除外されている」(ibid.)と指摘する。たとえば、商品概念にただちに「主観的な要素」を捉えることは難しいとしても、しかし、やはり商品が商品であるかぎり、それは〈商人〉による〈売れる予期〉という主観的な要素がその根梯にはたらいているのでなければ、そもそも成立不能であろう。
c)「適合性の公準」
.・「人間行為の科学的モデルに含まれるそれぞれの言葉は、……個々の行為者が類型的な構成概念によって指示されたように生活世界のなかで行為を遂行するならば、そうした人間行為は、その行為者の相手にとってと同じく行為者自身にとってもまた、日常生活の常識的な解釈という視点から理解可能であろう、というように構成されていなければならない。この公準に従うならば、社会科学者の構成概念と、社会的現実を常識的に経験する際の構成概念との一貫性が保証される。」(Schutz[98])
*山口節郎は「これら三つの公準のうち、第二のものは、……第三の公準と結びつく。それゆえ、ここでは……第二と第三の公準はひとまとめにして『適合性の公準』ということで理解しておこう」(山口[1981:40])という。だが、「主観的解釈の公準」と「適合性の解釈の公準」とは同じものではない。前者は「行為類型と人間類型との関係、より一般的には、行為と行為主体の意識との関係に関する原理である。これに対して『適合性の公準』は『常識的解釈』と『科学的解釈』との関係に関する原理である。」(丸山[1985:148])
*またA.ギデンズは「日常言語と社会科学」を論じるなかで次のようにいっている。、「適合性の公準にかんするシュッツの定式化はかならずしも明瞭ではない。しかしながら彼は、社会科学の概念が原則として素人行為者の日常言語に翻訳可能であるかぎり適合的であると主張しているようである。/もしこれが本当にシュッツのいわんとすることならば、とても擁護できない。そもそも『流動性選好』という概念が、どういった意味で経済活動に従事している行為者の日常言語概念に翻訳可能でなければならないというのか。……したがって、シュッツの適合性の公準は素人言語と社会科学の概念の結びつきを究明するために満足できるものではない。」(Giddens[1979=1989:269])ここでギデンズは日常言語と科学言語との〈隔たりとつながり〉を理解していないのではないかとおもわれる。そこでの要諦とは、「日常言語は、科学言語の究極的なメタ言語である」(丸山[1987:59])点である。 さて、この公準はギデンズが捉えた「社会科学」と「日常言語」との「翻訳可能」性のいかんを問題としているのではなく、それぞれの「解釈」の〈隔たりとつながり〉を指示していると捉えることができる。少なくとも社会的世界において生起する諸現象への「観察」とはたんに感覚?知覚されるものではなく、もっぱら〈理解〉されるものであろう。むろんそれは、「日常生活の常識的な解釈という視点から理解可能」な、つまり「相互主観的な理解」(丸山[1985:149])である。すでに「1.この問いが成立するための前梯」で呈示してあるように、ここでシュッツは、論理実証主義あるいは行動主義と応答し批判ているのである。

参考文献
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浜日出夫 [1991] 「社会は細部に宿る」西原編(1991)収録
Hanson, N.R. [1985] Patterns of Discovery, Cambridge Univ.P..[1986]村上陽一郎訳『科学的発見のパターン』講談社学術文庫
張江洋直 [1991] 「シュッツと解釈学的視座」西原編(1991)収録
張江洋直 [1997a]「〈死〉の社会性と現代社会」張江・井出・佐野編[1997]所収
張江洋直 [1997b]「〈死の社会性〉をめぐる前梯」竹田・森編[1997]所収
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張江洋直 [1998b]「社会理論と世界の超越」西原・張江・井出・佐野編[1998]所収
張江洋直 [1998c]「〈ミクロ・マクロ問題〉と世界の超越」『白山社会学研究』第6号、  白山社会学会
張江洋直 [1999a]「経験とメディア」『稚内北星学園短期大学紀要』第12号
張江洋直 [1999b]「超越論的概念としての〈経験のストック〉」『現代社会理論研究』第  9号、人間の科学新社
張江洋直 [1999c]「シュッツ生誕100周年によせて:小特集を編むにあたって」『現代  社会理論研究』第9号、人間の科学新社
張江洋直 [2000a]「リアリティとメディア」『情報メディア論』(丸山不二夫編)八千代出  版
張江洋直 [2000b]「〈死生論〉と世界の超越」『情況』2000年8月号別冊、情況出版
張江洋直・井出裕久・佐野正彦編 [1997]『ソシオロジカル・クエスト』白菁社
Husserl, E.(1954)Die Krisis der europaeischen Wissenschaften und transzendentale Phaenomenologi,Husserliana Bd.VI.=[1974]細谷恒夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中央公論
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西原和久 [1998] 「シュッツの発生論的思考について」『現代社会理論研究』第9号、人間の科学新社
西原和久編[1991]『現象学的社会学の展開』青土社
西原和久・張江洋直・佐野正彦編[1991]『社会学理論のリアリティ』八千代出版
西原和久・張江洋直・井出裕久・佐野正彦編[1998]『現象学的社会学は何を問うのか』勁草書房
野家啓一 [1993a] 『無根拠からの出発』勁草書房
野家啓一 [1993b] 『科学の解釈学』新曜社
鈴木琢真 [1991] 「実証主義論争」西原・張江・佐野編[1991]所収
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