目的論的な思考が隠蔽するもの――〈構築される信念〉は宗教なのか―−
張江洋直
HARIE  Hironao

 

*社会科学基礎論研究会2000年度第3回研究会報告( 2000年12月23日/会場:大正大学)
    「合評会」:書評対象本:大谷栄一・川又俊則・菊池裕生編 『構築される信念』ハーベスト社 2000年

   論評対象:「補章 20世紀における日本の宗教社会学――アプローチの変遷についての鳥瞰図――(寺田喜朗)」
 

目次

はじめに

1.「補章」はなにを補っているのか

2. 「現在」を構成する目的論的な思考

3. 目的論的な思考が隠蔽するもの

参考文献
 

はじめに
  本書を貫く論点は、「現在、宗教研究の新しいアプローチ(方法論や研究視座)が求められている」(1)という冒頭の言辞に明解に集約されている。いい換えると、編者3名を中心とした「宗教社会学を専攻する若手研究者」(1)である筆者たちがもつ「現在」への〈不満〉の核とは、「宗教研究のアプローチに関する議論は不十分であったのではなかろうか」(1)というものである。では、かれらがいう「新しいアプローチ」とはなんだろうか。かれらは、それを「ライフヒストリー研究や自己物語論、社会運動の構築主義的アプローチ、CMC……の分析、ナショナリズム研究、システム論的視点と現象学的視点、世界システム論など、近年の社会学やその他の領域の成果や知見を積極的に取り入れたアプローチ」(1-2)であるという。こうした雑多ともいいうる多様さを羅列的に呈示しつつも、なおかつ、それが一つのまとまりをもった「新しいアプローチ」であると〈確信〉されているのは、この多様性を支える地平的な了解がかれらに成立しているからである。それが、「宗教現象は……個人・集団・社会の各レベルが相互に影響し合うことで、われわれにとって意味ある現象として構築される現象である」(1)という認識である。この命題は、本書にとって謂わば〈基礎命題〉といってよいものだとおもわれる。だが、あえていえば、その意味するところは、一見する平明さとは異なり、じつはさほど明確とはいえないのかもしれない。
  こうした疑念をはじめに呈示したのは、本書の不首尾を指摘するためではない。本書の構成はこの〈基礎命題〉によって貫かれており、むろん明解である。第T部は「個人」準位に対応し、「信者概念およびその信念の構築」(2)が、第U部は「集団」準位に対応し、「宗教集団や宗教運動が社会的に構築されている過程」(3-4)が、そして、第?V部は「社会」準位に対応して、「『宗教と社会』というマクロな視点から見た、信念の構築」(5)が検討されている。しかも、本書の基本的な視圏には謂わば〈自明性を問う〉という基柢への志向が明白にみられ、評者はそこに共感的に学的信頼をみいだしてもいる。だが、本書がこうした明確な指針に貫かれ、十全な一貫性を示しているがゆえに、逆に、そこにある種の〈危うさ〉を感じてしまうのである。それを端的に、目的論的な思考が構成してしまう〈隠蔽構造〉ということができる。それを如実に語っているのがかれらの「現在」の了解であり、それは「イントロダクション」と「補章」に集中的に現れている。先に呈示した疑念は、この点を浮き彫りにするためのものであり、その詳細については後論する。

1. 「補章」はなにを補っているのか
  「イントロダクション」で筆者たちは、「補章」を「20世紀日本の宗教社会学の展開を、研究対象に対するアプローチの変遷に焦点を当て、……その鳥瞰図を描き出すことを試み……、その歴史的な研究成果を確認するとともに、現在の研究状況とその課題を析出し、今後の宗教社会学研究の方向性を眺望している」(6)と概説する。このコンパクトな内容呈示は、じつに適切である。じっさい「補章」の冒頭でも、それは明示的に、「本章では、20世紀における日本の宗教社会学の展開を振り返り、研究動向の推移を鳥瞰する作業から、宗教社会学におけるアクチャリティを考えてみたい」(158)と記されている。 だが、こうした謂わば〈大きな主題〉に、なぜ「補章」という位置が与えられているのだろうか。ここに本書の構成とともに、その意義を十全に理解するための鍵があるようにおもえる。
   そもそも「補章」とはその名辞が端的に示すように、論理構成上なにかを〈補う〉ためのものである。それゆえ、通常それは、著作構成の構造からみるかぎり、不可欠とはいい難いものが多いようにおもえる。少なくとも、〈作者〉の側はそうした了解をしていると考えて大過あるまい。そうであれば、「補章」といったものは、なくともよいのだが、あればよりよい、といった程度の意義が与えられているのが一般的であるということができるだろう。しかし、この章で扱われている主題は、けっしてそうしたものではない。いや、それどころか、評者がみるかぎり、そして、おそらく編者も同様に考えているとおもわれるが、ここでの主題は、それゆえ、この「補章」は本書にとって必要不可欠なものであろう。では、この「補章」はいったいなにを〈補っている〉のだろうか。
この「補章」(以降は寺田論文と記載)の最後に「追記」や「註(1)」で明記されてもあるが、評者には、寺田論文が示した認識内容は、大谷栄一による「20世紀日本宗教研究の再検討」あるいは、それに先行する同名の報告(「宗教と社会」学会第7回学術大会ワークショップ「現代世界の宗教性/霊性」1999年)にかなりの部分を負っているようにおもえる。とはいえ、この指摘をもって、そこにオリジナリティの順位をみて、なんらかの詮議をする必要性を訴えたいのではない。そうではなく、ここでは、内容的にみて寺田論文とかなりの部分が重ねられるとおもわれる〈作品=認識内容〉が、本書に先行して成立してあることを明らかにしたいのである。おそらく、本書を上梓する〈動機〉はそこにあるからである。
   さて、すでにみたように、本書の第1章から第6章までの各章は、それぞれに〈基礎命題〉に対応した位置づけを明確に与えられている。だが、寺田論文にはそれがない。だからこそ、それは「補章」なのだというべきなのかもしれないが、こうした位置づけが成立するのは、むろん本書の不首尾に拠るのものではない。むしろ、それは本書の論理的な誠実さに起因しているといわなければならないだろう。だが、この点を敷延化するためには、私たちはここで、寺田論文がなぜ〈基礎命題〉との対応関係を築けないのか、と問うべきではないのだ。なぜなら、この論考は〈基礎命題〉と対応することがけっしてできない位相に位置しているからである。いい換えれば、他でもないこの〈基礎命題〉をそれとして保証する、謂わば地平的なはたらきを形成するのが寺田論文だからである。それゆえ、それは〈基礎命題〉のメタ準位に位置しているといわなければならないだろう。あるいは、それは〈基礎命題〉の根拠を明示化するために存在している、ということもできる。つまり、この章は本書の論理的な基柢部を〈補っている〉のである。この章が「補章」でなければならない所以はこれである。それは必要不可欠で、しかもメタ準位に位置している。そこでは、なぜ〈基礎命題〉が成立するのか、いい換えれば、「新しいアプローチ」の必要性が、つまりは本書の存在根拠を為す「現在」の認識が、ここで呈示されなければならないのである。いい換えれば、本書が通常の著作として成立するのであれば――むろん、そうなのだが――、読者に本書の〈基礎命題〉が成立する論理的根拠を、なんらかの仕方で明示化しなければならないのである。この要請が寺田論文そのものを促している。

2. 「現在」を構成する目的論的な思考
   寺田論文は、「20世紀における日本の宗教社会学の展開」を次の5期に分けている。
   第1期  宗教社会学説の輸入・紹介(1900?1935)
   第2期 家・同俗談理論と機能主義による実証研究(1935?1960)
   第3期 世俗化論と構造機能主義による社会変動へのまなざし(1960?1975)
   第4期 内在的理解と教団類型論による新宗教へまなざし(1975?1990)
   第5期 構築主義による宗教現象の構築過程へまなざし(1990?2000)
   さて、簡略にそれぞれの時代区分を確認しておこう。まず、「第1期は、日本の宗教社会学の黎明期に当たる」(158)。「第2期は、日本社会をフィールドにした実証的な社会学的宗教研究が開始される。この期間の特色として、伝統的な村落社会や宗教集団へインテンシヴな調査研究が活発に進められたこと、また農村社会学において析出された家・同族団理論と、欧米の機能主義人類学のアプローチに強い影響を受けていたことが指摘できる」(159)という。「第3期には、世俗化論や構造機能主義などの新たな欧米理論が輸入・紹介され、……質問紙を用いた統計的手法が導入されている。そして、これらの新たなアプローチの導入の背景には、日本社会における社会変動という事態があった」(161-2)。「第4期は、宗教社会学研究会(1975?1990年、以下、宗社研)の活動によって、宗教社会学研究が大いに活性化した時期である」(163-4)。「第5期は、ポスト宗社研の研究を指している」(166)。
  この「第5期」とは「現在」である。「この期間は、社会学全般と同様に『パラダイム多元主義』の様相を呈しており、その時期的特質を指摘することはきわめて難しい」(166)という。とはいえ、寺田論文は、この時期を「宗教の脱制度化的状況を踏まえた宗教の社会形態の変容を探った研究、信者の意味付与・解釈と信者間の相互行為に注目して、宗教現象の構築過程を記述・分析するアプローチ――これを本章では構築主義的アプローチとして括った――というふたつの流れを新たな研究潮流として指摘した」(170)と概括している。
   こうした時代区分と各ステージでの中心的な研究手法や考え方などの呈示は、じつに手際がよく、とてもよく整理されているといえよう。また、文体も平易で、語句説明などに不十分さはあるものの、この紙幅から考えれば、それらはあえて指摘されなければならない短所とまではいえないだろう。では、ここに留意すべき点はなにもないのだろうか。
評者は、こうした〈歴史的〉記述のすべてがその本質において一つの〈物語り(narrative)〉であることに留意を促したいとおもう。いい換えれば、〈歴史〉の構成主義(constructionism)といった理論地平との結節点が、社会的構築主義(social constructionism)を賞揚するこの論考からはみえてこないのである。これは、じつに不可思議な事態といわなければならないのではあるまいか。私たちがここで〈歴史〉の構成主義というのは、野家啓一が「歴史的出来事は『物語り行為』によって構成される」(野家:55)と指摘する「歴史の物語り論(narrative theory of history)」(野家:20)を念頭においてはいるのだが、たとえばそこから離れて、ここでの要諦を「相互行為論的還元」(張江[1998:6])と呼ぶことができるかもしれない。つまり、両者はこの要点で一致していると考えることができる。
   むろん、歴史は〈現在〉において〈物語られる〉という契機を本質的にもっている。それは不可避的なことだ。それゆえ、そのこと自体がただちに問題を発生させるわけではないだろう。だが、そこで機能している思考の様態が謂わば〈目的論的なもの〉であるという自覚は充分に為されているのでなければならない。さもなければ、すでにつねにその記述は、自らの立場性を〈知らない〉ままだといわなければならないのだから。ここで問題としなければならないのは、〈現在と未来〉の時制に関わっている。つまり、たとえばE.フッサールが示す「理性の目的論」は謂わば「未来によって現在を根拠づける仕掛け」(貫:235)ということができる。私見では、野家がいう〈物語り〉には、こうした動態的な様態をみることができる。
   だが、寺田論文にみられる第1期から第5期までの歴史区分は、あえていえば、こうした〈物語り〉という〈動詞的な様態〉よりは、むしろ、はじまりとおわりをもった静態的な〈ストーリー(story)〉へと傾斜しているようにおもえる。いい換えれば、このよくできたストーリーは、すべて、かれらが抱く「現在」とそれへの〈不満〉へと流れ込む機制によって成立してはいないだろうか。しかし、このようにいうと、当然の反論が返ってくるかもしれない。というのも、寺田論文は「現在」を最終地点とは決して記述していないからである。それどころか、そこでは「現在、宗教社会学は新たな転換期にある」(171)という表現において、むしろ「現在」が謂わば過渡期であることが端的に示されているということもできるだろう。しかし、これを単純に「現在」を特徴づける指標として理解するならば、結局は過渡期という「現在」へと至るという完結なストーリーが示されているだけなのではあるまいか。 私見では、「現在」を一つの区分として分節化しなければならない要請が存在しているのである。だが、それは寺田論文自らが語るストーリーと同値されるものではないようにおもえる。

3. 目的論的な思考が隠蔽するもの
   寺田論文は、「宗教社会学的な研究対象」が「列島社会における通時的な伝統社会から新たな都市の共同体へ、そして信念を共にする島宇宙としての教団へ、空間的にも時間的にも次第にミクロな領域を包含した対象の精緻化の過程」(170)であるとみる。こうした変遷過程はアプローチに関してもみられるといい、「広い意味での機能主義的アプローチと対置される形で1970年代中盤以降、『内在的理解』という解釈的アプローチが導入され、宗教の意味の領域が分析の俎上に登った」(170)点に決定的な分水嶺をみている。これをいい換えれば、研究対象においても、また研究アプローチにおいても、1970年代中葉が決定的な転換点であること、つまり、「宗社研」が決定的な画期であることが指示されてあるといってよいだろう。では、この第4期と区分される第5期とはなんなのだろうか。すでにみたように、第5期である「現在」とは「ポスト宗社研」(166)の時代であるいう。だが、この「ポスト」とは、むろん、たんなる事実系による時間系列を指示しているだけではあるまい。そうであれば、この第4期と「現在」を区分する指標とはなんなのだろうか。「現在では宗教現象を非実体的に捉え、多元的な意味世界の構築過程を記述・分析する構築主義的アプローチが導入されるに至っている」(170)という結語での記述に端的に示されるように、「構築主義的アプローチの導入」が、「現在」と第4期とを区分する根拠とされている。だが、それは、はたして時代区分の指標足りえるのだろうか。
   たしかに、「宗社研」時代に構築主義は中心として登場していないといいうるかもしれない。というのも、周知のように、社会問題の構築主義のマニフェストといってよいスペクターとキツセの論考は1977年に上梓されているとはいえ、その翻訳は「宗社研」が解散する1990年だからである。それ以降の展開をみると、たとえば〈constructionism〉の訳語には構成主義と構築主義の2通りがみられ、それが後者に一元化されはじめたのは、おそらく90年代の後半といってよいだろう。そこに、謂わば〈社会学的世界〉の共通感覚とでもいうべき、ある共同的な地平的了解の形成過程をみることができるかもしれない。むろん、こうした事態を背景としてそれは「導入」されたのだろう。だが、たとえそうであるにせよ、はたして「構築主義的アプローチの導入」をもって研究動向の時代区分とすることができるのだろうか。というのも、評者がみるかぎり、「構築主義的アプローチ」は「宗社研」が拓いた理論地平の延長線上に位置しているといわざるをえないからである。
   たとえば、寺田論文で第5期を特徴づける「ふたつの流れ」(170)の一つは「「宗教の脱制度化的状況を踏まえた宗教の社会形態の変容を探った研究」(170)であるという。だが、「宗教の脱制度化」という第5期の状況を特徴づける認識は西山茂のものであり、その「社会形態」を「新霊性運動」と述語化して研究動向を方向づけているのは島薗進である。両者はともに第4期の中心を成している。また、第二のものは、「信者の意味付与・解釈と信者間の相互行為に注目して、宗教現象の構築過程を記述・分析するアプローチ」(170)を意味する。これが、「本章では構築主義的アプローチ」(170)とされているのは、すでにみたとおりである。留意しよう。そもそも第4期の特徴とされる「『宗教の意味世界探求』を目指す『内在的理解』」(164)が、「宗教の機能から意味の領域へと研究者の関心をシフトさせた」(164)のではなかったのだろうか。しかし、じつは、こうした指摘内容は、寺田論文に留まらず、おそらく執筆者全員にとって謂わば〈判りきったこと〉であるのだろう。おそらく、かれらの「現在」を形成しているのは、第4期がつくりだした理論的地平そのものにではなく、それが充分に歩まれていないことへの認識、つまり〈不満〉の集積なのである。
   寺田論文に先行する大谷発表に、それを端的にみることができる。「宗教社会学研究へのA. シュッツの『多元的現実論』の適用を論じた望月哲也は、……内在的理解……の提唱とならんで−宗教の意味世界を当事者の意味付与・解釈過程に即して理解・解釈する認識論的視座の必要性を提起した。しかし、こうした研究視座にもとづく成果は、これまでの実証的な新宗教研究においてどれだけ達成されているのであろうか?」(大谷[1999])これと同様の不満を、本書の編者でもある菊池裕生も口にしている。「島薗が示唆した分析視点が、その後彼自身を含め他の論者によってどれほどの成果を生み出してきたかについては疑問も残るが、それが現在から未来へ向けて新宗教研究に新たな局面を切り開くものになるという点だけは疑う余地がない」(37)。
   さて、こうした了解を原基とすることで、はたして第4期と「現在」とを明確に分岐させることができるだろうか。そこに、もしも時代区分の設定が可能であるとしたら、それは、〈第4期は第5期を準備した〉といった了解の成立において以外にはありえないのではあるまいか。 しかし、そうした了解が成立するために、謂わば〈世代的な自負〉とでもいうべき根拠以外に、はたしてどのようなものを考えることができるのだろうか。これは本書の冒頭で「宗教社会学を専攻する若手研究者」と自己規定する表現によく顕れている。おそらく、「現在」を一つの区分として分節化しなければならない要請とは、この〈世代的な自負〉なのではあるまいか。だが、これに、いかなる根拠が呈示されているのだろうか。
   再度いうが、寺田論文は本書の〈基礎命題〉の根拠を呈示する、その意味では、本書のメタ準位的位相に位置している。そして、この〈基礎命題〉を支える「現在」の了解は、じつは、第4期が切り開いた地平においてあるにすぎないといわなければならないだろう。  そうであるにも拘わらず、「現在」は第5期とされ、そこへと収斂される仕方で〈宗教社会学の歴史〉が語られている。しかし、こういったからといって、評者は寺田論文を否定的に考えているのではない。そうではなく、ここで「未来によって現在を根拠づける仕掛け」の必要性を強調したいのである。じっさい、寺田論文にみられる第4期の記述は、明確に「宗社研」が〈現在〉を準備していることを告げている。その記述は明解である。だが、それに比して、かれらの「現在」に明確な根拠はみられない。そのために本書の〈基礎命題〉は、たんに呈示されるという仕方になっているようにおもえる。
たとえば、「宗教現象は……われわれにとって意味ある現象として構築される」というが、ここでいう「われわれ」とは誰のことなのだろうか?それは、〈宗教者や信者〉なのだろうか、それとも研究者あるいは〈アカデミックなわれわれ〉のことを指示しているのだろうか。あるいは、それは〈社会の成員〉の謂いなのだろうか?
   また、「個人・集団・社会の各レベルが相互に影響し合う」という場合、そこで想定されている〈主体〉とはなんなのだろうか?この言辞のとおり「各レベル」が主体なのだろうか?もしもそうであるとして、では、たとえば「個人レベル」と「集団レベル」が「相互に影響し合う」とは、どのような事態なのだろうか?一般に、ある準位と他の準位の相互作用が成立するとすれば、そこに〈媒介者〉は不可欠なのではあるまいか。また、「個人・集団・社会」という「レベル」は分析的な概念なのだろうか、それとも実体的な位階を指示しているのだろうか?あるいは、それらは、〈社会の成員がそのようにみなしている〉社会的世界の分節化体系の準位をたんに指示しているだけなのだろうか?
   これらの疑問には、社会的構築主義というアプローチから明確な応答が為されるのでなければならないだろう。だが、問題は、それだけではないようにおもえる。「現在」へと向かう目的論的な思考のために、じつは、もっとも問われなければならない問いが、すっぽりと〈隠されている〉のではあるまいか。 それは〈宗教〉そのものへの問いである。
   ところで、かつてキツセとスペクターは、「社会問題とはある種の状態であるという考え方を捨てて、それをある種の活動として概念化しなければならない」(Kitsuse&Spector[1977=1990:116])と語った。つまり、これは、客観的に実在すると想定された社会状態ではなく「クレイム申し立て活動」(ibid.)へと社会問題研究を転換する要請であった。周知のように、この要請のベクトルと本書は対応している。寺田論文は、「地位と役割の体系としての従来の実体的な社会・教団モデルを相対化し、(諸)行為者の意味付与・解釈と相互行為の過程の中で間主観的な現象として社会・教団が構築されていると捉える構築主義的アプローチが、これからの宗教社会学をいかなる方向へ展開させていくのか、今後の動向に注目したい」(170)と語る。この記述そのものは適切である。だが、それはこの記述が「教団モデル」に関わるものだからである。いい換えれば、教団という「状態」が想定されている限りにおいて、この指摘は妥当する。しかし、それが為しえない場合、事態はどうなるのだろうか。おそらく私たちはここで、ウールガーとポーラッチによる「存在論的区分ごまかし(ontological gerrymandering)」という指摘と同種の問題系に遭遇している。草柳千草によれば、「スペクターとキツセは、何が『問題』なのかが人びとによって定義される、その社会過程そのものを、研究に値する対象であると考えた」(草柳、199)。「存在論的区分ごまかし」とは、「構築主義的な経験研究において、人々の定義の外部に『客観的状態』を想定しないという方法が事実上裏切られている、つまり客観主義的な状態についての想定が無自覚のうちに混入している」(草柳、199)という、構築主義への〈内在的な〉批判である。寺田論文が語る「構築主義的アプローチ」とは、教団、つまり、客観的に想定可能な〈宗教〉がすでにつねに暗黙に想定される場合にのみ妥当するのではあるまいか。
   では、問おう。寺田論文で紹介されている「自己啓発セミナー」とはなにか。それは、なぜ、宗教社会学の対象なのだろうか。すでにみたように、「行為者の意味付与・解釈と相互行為の過程の中で間主観的な現象として社会・教団が構築されている」という視座は、とりもなおさず「状態」ではなく「活動」を焦点化するものである。そうであれば、筆者たちは、さらに〈宗教〉とは「ある種の状態であるという考えを捨てて、それをある種の活動であると概念化しなければならない」のではあるまいか。むろん、そうした「活動」とは「人びとによって」〈宗教〉と「定義される、その社会過程そのもの」の謂いである。少なくとも、評者が理解するかぎりにおいて、社会的構築主義というアプローチが成立するとするならば、こうした「概念化」がなされるのでなければならないようにおもえる。
   さて、「自己啓発セミナー、アムウェイ、ヒーリング」を〈宗教〉と定義しているのは、いったい誰なのだろうか。評者には、それが「宗教社会学を専攻する若手研究者」であるようにおもえてならない。もしも、この危惧が妥当するのであれば、おそらく第5期は未だ訪れてはいないのだ。おそらく、「転換期」と呼べるべき第5期とは、第4期の理論地平をさらに徹底して歩みきるなかにおいて、はじめて現出するようにおもわれる。

参考文献
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福重清   [1997]「社会問題と問題経験の構築/脱構築」『現代社会理論研究』第7号(現代社会理論研究会)人間の科学社
張江洋直 [1998]「まえがき」『現象学的社会学は何を問うのか』西原和久・張江洋直・井出裕久・佐野正彦編、勁草書房
菊池裕生 [2000]「物語られる『私』(self)の体験談の分析」『構築される信念』所収
草柳千草 [1996]「『クレイム申し立て』の社会学再考」『現代社会理論研究』第6号(現代社会理論研究会) 人間の科学社
草柳千草 [1999]「構築主義論争を読みかえす」『文化と社会』第1号、マルジュ社
中河伸俊 [1997] 「社会構築主義と感情の社会学」『中河伸俊ホームページ』ネット用改訂版(http://jinbun1.hmt.toyama-u.ac.jp/socio/nakagawa/ )
野家啓一 [1998] 『新・哲学講義 第8巻 歴史と終末論』、岩波書店
貫成人   [1998] 「理性の目的論」『新・哲学講義 第8巻 歴史と終末論』所収
大谷栄一 [1996]「宗教運動論の再検討」『現代社会理論研究』第6号(現代社会理論研究会) 人間の科学社
大谷栄一 [1999]「20世紀日本の宗教研究の再検討」(「宗教と社会」学会第7回学術大会ワークショップ「現代世界の宗教性/霊性」 1999年6月13日、配布レジュメ)
大谷栄一 [2000]「20世紀日本の宗教研究の再検討」『宗教と社会』第6号(「宗教と社会」学会)
Spector, M.& Kitsuse, J. I. [1977]  Constructing the Social Problems, Cummings Publishing Company. =[1990]村上直之・中河伸俊・鮎川潤・森俊太訳『社会問題の構築』マルジュ社
角田幹夫 [1998]「理解の原点」『現象学的社会学は何を問うのか』所収