おかしな時代で「生きていく」ために

T.C.

 『コミュニケーション不全症候群』は1991年に書かれた本で
ある。その中で、中島梓は、おタク、拒食症、過食症、JUNEなどと
いった「症例」を挙げながら、「コミュニケーション不全症候群」
とは何かを論じ、そして、多くの人間が、少なからずこの病気にか
かっている今の時代と、その行く末を危惧し、警鐘を鳴らしたので
ある。
 「コミュニケーション不全症候群」には、上に挙げた様々な症状
があるようだが、そこに共通しているのは「他人の存在への知覚障
害があるということだ(注1)」という。つまり「自分たちの外側
にひろがっている世界をちゃんと正視する能力が欠如している(注
2)」のである。だから、満員電車や混雑した道で、人を蹴散らか
しても平気なのだ。彼らにとって、それは人ではないから。そして
それがエスカレートすると、幼女誘拐や女子高生監禁事件につなが
っていく。犯人にとって「自分たちの外側」の存在である被害者を、
彼らは人間として認識できなかったからだと、中島は指摘する。 
 最初にも述べたが、この本が書かれたのが1991年。そして文
庫版の解説で大塚英志が少し触れている通り、自分たち以外の人間
を(彼らにとっては人間ではないのかもしれないが)排除しようと
した、過激で残忍な事件、オウム真理教の事件が1995年に起き
た。1997年には神戸の事件も起きた。今は2003年。痛まし
い事件は起き続けている。中島梓が、この本で指摘した「コミュニ
ケーション不全症候群」は、収まるどころか広まって、彼女が危惧
したような「誰もが責任をとろうとせず(中略)愛を求め、そして
夢うつつでいようとありとあらゆる手段をめぐらす世界(注3)」、
つまりは、誰もが大人にならず、他者を認識せず、まわりには幽霊
しかいないような世界に、近づいていってしまっているように思え
る。

 わたしは、『コミュニケーション不全症候群』を読んで、最近出
版されたある本を思い出した。他者への知覚障害、という点で、同
じようなことが書かれているのではないかと思ったのである。それ
は、養老孟司の『バカの壁』である。
 「バカの壁」とはいったい何なのか。本の最初の方で、養老孟司
は「話してもわからない」という状況について説明している。例と
して、妊娠から出産までのビデオを見せたときの、女子学生と男子
学生の差について挙げている。女子学生は「新しい発見があった」
と言ったのに対し、男子学生は「こんなのは知っている」という反
応だったという。
 この差について養老孟司は「自分が知りたくないことについては
自主的に情報を遮断してしまっている(注4)」からだ、と述べて
いる。つまりこれが「バカの壁」なのだ、と。
 さらに彼は、脳の出入力(著者は解剖学者)の観点からも、この
問題について述べている。脳の出力結果、行動とか感情をyとして、
入力される情報をxとする。そうすると「y=ax」という式が出来
る、という。つまりaという係数によって、行動や感情が変化する。
好きな人を見たらaはプラスになり、yもプラスになる。逆に嫌いな
人を見たらaがマイナスになりyもマイナスになる。そして、どんな
に入力しても、aがゼロなら出力結果はゼロになってしまう、という
ことである。さらに、このaがゼロという状態の逆がaが無限大、だ
という。ある情報がその人のすべてになってしまう、原理主義に代
表されるよう状態だということだ。
 わたしが考えたのは、自分に不都合な情報は遮断してしまう「バ
カの壁」や、係数aがゼロや逆に無限大(ある情報に対して無限大
ということは、他はゼロになってしまうということであろう)な状
態というのは、つまり中島梓がいうところの「コミュニケーション
不全症候群」なのではないかということだ。
 もちろん、道の電柱に反応しつづけても仕方がない、と本の中で
例を挙げているように、係数がゼロで正しい場合もある。だが、逆
にいえば、他人に対して、電柱のように係数がゼロになってしまう
のが「コミュニケーション不全症候群」と言えるのではないだろう
か。また養老孟司は、オタクの脳は、好きなアニメやマンガに対し
て、係数が100や200になっているのだと述べているが、たと
えそのような状態であっても、他の入力に対して、適切な係数が代
入され、出力結果がきちんと出るようなら、中島梓の言うとおり、
周りの環境に主体的に関わることができているわけで、なんら問題
ないことになる。ただ、好きなもの以外に対して、係数がゼロにな
ったり、好きなものに対する係数が無限大になったりするのが問題
だということであろう。

 『コミュニケーション不全症候群』から、10年以上たって出版
された『バカの壁』は、何十万部というベストセラーだという。そ
れだけ、今の状況は以前と変わらず、もっとおかしなことになって
いるのではないかという不安が、多くの人にあるのではないだろう
か。
 では、このような状況から脱するにはどうすれば良いのか、とい
うことについて、中島梓は「勇気を持って見ること」だと言い、養
老孟司は(ここまで挙げたことだけではなく、もっと様々なおかし
な状況について述べているのであるが)、「人生の意味を考えるこ
と」だと述べている。わたしはさらに、今のおかしくなっている社
会で起きる痛ましい事件について、どのような態度をとるべきか、
ということを述べた大塚英志の意見を挙げたいと思う。
 彼は、7月19日の朝日新聞において、少年や若者による不幸な
事件が起きたとき、それを自身の問題として考えること(それは社
会の一員として考えることだという)、そしてそのように犯罪の意
味を真摯に考えることのできる社会の包容力が、このような不幸な
事件を回避する道なのだと述べている。「大人たち」がすべきなの
は、「加害者の両親の市中引き回し」などという言葉に溜飲を下げ
たり、被害者のことを興味本位で書きたてる雑誌を読んで好奇心を
満たすことではないのだ、と。
 神戸の事件が起こった時、わたしは犯人が中学生であったことも
ショックだった。だがそれと同じくらいショックを受けたのは、犯
人逮捕を警察署前から伝えるリポーターの後ろで、カメラに向かっ
て笑いながらピースサインを向ける子供たちの姿だった。
 彼らは普段は優しい人たちなのかもしれない。でも、あの瞬間の
彼らは、想像力がまるで欠如している。彼らにとって、被害者の苦
しみも、残された人の悲しみもひとごとであり、事件そのものを自
分たちには関係のないことだと思っている。
 ピースサインをする彼らも、大塚が挙げる、溜飲を下げる大人や
、好奇心を満たす大人も、みな同じだ。彼らは、自分が知りたくな
い情報は遮断してしまう「バカの壁」を張り巡らし、現実に向き合
おうとしない一種の「コミュニケーション不全症候群」に侵されて
いるのだと思う。

 このおかしな状況から脱するため、三人はそれぞれの意見を述べ
ているけれど、「見る」ことも「考える」ことも、根底では同じな
のだと思う。
 中島梓の本を読んでも、「そういう人もいるんだ。でも、自分に
は関係ない」で終わらせてしまったら駄目なのである。養老孟司の
本を読んで、「あの人に話しても解らないのは、バカの壁があるか
らなんだ」と納得したら、次は、自分がその壁を作っていないか、
考えなくてはいけないのだ。痛ましい事件が起こったとき「理解で
きない」、「関係ない」で終わらせるのではなく、「なぜ、理解で
きないのか」、「どうして、こんなことが起こるのか」、逃げない
で向き合わなくてはならないのだ。
 彼らが言うとおり、現実を「見る」ことは苦しいし、「考える」
ことは楽じゃない。それは、きっと、傷ついたり、落ち込んだりの
繰り返しだ。誰だって、傷つきたくないし、楽したい。それでも、
わたしたちは「生きて」行かなくてはならない。だから、それは避
けて通れないことなのだ。
 中島梓は、ほんの少しの勇気があれば良いというけれど、たくさ
んの覚悟がいる人もいるだろう。深く傷つき、落ち込む人もいるだ
ろう。でも、傷ついたら手当てをすれば良いのだ。落ち込んだら、
休んでまた前を向けば良いのだ。そう、思いたい。
 たぶん、そうやって「見よう」、「考えよう」とする意志が、貴
いものなのだ。だから、忘れないようにしたい。それを持つことが
、きっと「コミュニケーション不全症候群」に(軽度かもしれない
が)罹っていて、「モラトリアム人間」であるわたしにも、今日か
らやることができる、自分の足で歩いていく一歩目になるのだと、
そう思うから。

 
注1 『コミュニケーション不全症候群』285頁
注2 『コミュニケーション不全症候群』285頁
注3 『コミュニケーション不全症候群』319頁
注4 『バカの壁』 14頁

参考文献
中島梓『コミュニケーション不全症候群』、筑摩書房(ちくま文庫)、1995年
養老孟司『バカの壁』、新潮社(新潮新書)、2003年