コミュニケーションの窓

はじめに

人間関係って難しい

 「友達との会話では芸能人かファッションかクルマの話題ばかり」
 「沈黙がこわくて、とにかくしゃべり続けていないと不安」
 「田舎の訛が恥ずかしくて引っ込み思案」
 「いつも『分かってもらえない』っていう感じ」
 「嫌われるのが怖くて、頼まれたら断れない」
−コミュニケーションって、うまくいけば大きな喜びだけれども、失敗した場合はとてもあと味が悪い。うまくいっているようではあっても、心は空しいだけということだってけっこうある。どうも人間関係には「うっとおしさ」がつきまとう。
 しかし、ある意味で人間の生活というのは人間関係のプロセスそのものだ。そこが安定してはじめて、自分自身のあり方に安定感を得られる。言い換えると、相互確証(キミとこのように分かり合えた)があってはじめて自己確証(これが私なのだ、私はこれでいいのだ)は成立するのである。こうした関係を《相互確証を通じての自己確証》と名付けておくことにしよう。他者との関係の仕方の総体を「自己」という、というのは言い過ぎかもしれないが、けっこう当たっていると思う。社会というのは、「あなたあっての私」「私あってのあなた」というお互いの関係の仕方のネットワークなのだから。
 言い換えると、人間は、他の人間に必要とされることを必要とするのである。そんな中で、「オレなんかいてもいなくてもどうでもいい人間だ」などと本気で感じたりしたら、生きるのはつらいに違いない。そういう状況に置かれている人も現に存在しているのだと思う。だがそこまでいかなくとも、私たちはみないくらかずつは、寂しいのではないだろうか。人間関係に困難をかかえ、不安感や焦燥感に悩まされる機会も多いだろう。「今の私は本当の私じゃない」「自分を変えたい」……なんか、不安だ。
 だから人は、いろいろな方法でそうした困難に対して自己防衛をはかる。ますますコミュニケーションを遠ざけて自閉的になり、場合によっては「おタク」と化すというのは深刻だが分かりやすい方法のひとつだ。また、付き合いは普通にするものの、いつもシラケていたりいつもニヤニヤして表情からは決して自分の感情を悟らせまいとするのも一種のコミュニケーション拒否と見ていいだろう。これに似ているのが、テレビで言っていたこと、雑誌に書いてあったこと−つまりとりあえずは自分に関係のないこと−しか話題にしない会話というものであって、自己を表出しないという点では同様にコミュニケーション拒否の一種だと言っていい。あるいは、自己開発セミナーや宗教の場でそれまでにない他者との関係の仕方を体験し、「本当の自分」「新しい自分」に安心を獲得するという仕方もあり、それもいっときの救済にはなろう。
 もっとも、人間関係上の困難は、当の人間関係そのもののプロセスの中で解決するのが筋で、避け続けたり、安息の場を別に見つけたりできたとしても、現実の問題は何ら変わらないのだが。

コミュニケーション、みんなの悩み

 いずれにせよ私たちは、他者を求め、コミュニケーションを欲しているにもかかわらず、あまりそれがうまくできずにいる。ときにはそこから逃げ出しもする。なぜだろうか。
 もちろん、私たちのコミュニケーションがヘタだとしても、それは私たちがそのように生まれついてきたからではない。たまたま「話し方」や「聞き方」の訓練が足りなかったからだという技術的な問題にも解消できない(それはそれで必要だとは思うが)。むしろ、私たちがみないくらかずつ寂しいと感じている状況にあるとすればそれは「社会現象」なのであって、それゆえに社会学的分析の対象とすべきなのだ。「社会学的」というのは、日常の問題をややこしい学術用語に置き換えるということではなくて、私たちが日常「個人的な経験」として認識していることを、「社会的な問題」−みんなの問題−としてとらえ直してみようということ。
 結論的なことをまず言ってしまおう。商品やお金がまずもって大事だという社会、競争や差別や抑圧が支配的な社会、メディアの発達した社会、そうした現代社会全体のあり方が家族や学校などにおける私たちの身近な人間関係も規定していて、コミュニケーションの性格にも影響を与えている。しかもしばしば、それを不自由に、敵対的なものにする方向で。
 こういう関連を一口に「社会のせいだ」と言ってしまうと「じゃあ、個人の力じゃどうしようもないと言うのか」「個人に責任はないのか」ということになってしまいそうだが、「社会が私をどのように拘束しているか」を知ることが、私のとる行動を方向づけるのである。他者への想像力、社会への想像力を働かせることが、私たちが日々直面する問題の性質を明らかにしてくれる。まあ、社会学というのはそういうものなわけだ。

 そこで、他者や社会への理解を深めていくという社会学的な作業が、同時に、私たちのコミュニケーションを豊かにしていくための方策でもあるのだという点について以下述べていきたい。
 

第1節 「学び」とコミュニケーション

やさしさのための頭のよさ

 あなたは「頭のよさ」をどのようにイメージしてきただろうか。私自身のイメージは、おおよそ次のように変遷してきた。
 小学生の頃、それは「もの知り」だった。中学の頃は「成績のよさ」、高校の頃は「学校の勉強以外のことでの知識」、大学の頃は「議論上手」、そして今は、「やさしさ」が「頭のよさ」だと思っている。これは単なる思いつきではなくて、そういう風に実感しているということだ。だから現在は、その人の頭の中に何が詰まっているかではなく、その人がどう振舞うかということに、「頭のよさ」を見る。つまり第一にそれは実践の問題なのだということ。そして第二に、その実践が「共感」を広げていく方向に働いているか否かが問われるということである。

     《やさしさ−思いやり−想像力−教養−頭のよさ》

 やさしさを思いやりという言葉に置き換えるのに抵抗はないと思う。そして、思いやるとは相手に対する想像力を働かせること、これもいいだろう。ここで、想像力の豊かなことを教養があることとしてみる。教養深いことを頭がいい、というのだ。
 こういう風に一列に並べてみた意図をひとことでいうと、「やさしさに向かわない頭のよさなんて糞っくらえ!」というところか。
 もう少し上品にいこう。
 ある学生が電車の座席に座って『老人福祉概論』かなんかの本を一生懸命読んでいる。目の前に立っているお年寄りの存在を知ってか知らずか−これは喩えだが、そんな風な「勉強」の仕方はつまらなくはないか。自分の生活の仕方、自分の生き方とは無縁なところでの勉強は高校までにずいぶんと強制されてきたはずだ。問題も解答もすでに定められていて、それをどう効率よくこなしていくかがもっぱら問われたのだと思う。
 しかし、試験にパスすることが最終目的だったり、他者と比較して優劣を競うゲームみたいなのが「知識」や「頭のよさ」だとしたら、それは結局私たち自身の生活を豊かにしてくれるものとは言えないのではないか。お互いに分かり合えること、お互いに認め合えること、お互いに助け合えること−先に述べた、《相互確証を通じての自己確証》のプロセスにかかわる限りで、私たちの「知」は有効性をもつだろう。他者への想像力を働かせてやさしさを実践できる能力、それがここでの「頭のよさ」ということである。
 映画『フォレスト・ガンプ』の中で何回か語られていることばに、「バカなことをするやつがバカだ」(Stupid is as stupid does.)というのがある。知能指数が低いとまわりに言われたガンプが母親に「ぼくってバカなの?」と問うたのに対する答えだ。知能指数とか偏差値とか学歴とかで決まるのではない、その人がどう行動するかが問題なのだ。見回してみれば、知能指数が高くて学歴が高くて社会的地位が高い、そんな中にも、他者への配慮に欠け、平気で人を傷つけ、権威をふりかざしてわがままな行動をとる「バカ」は大勢発見できるだろう。コミュニケーションという実践の中でこそ、その人の能力は表現されるのだし、やさしさもそこで試されるのである。
 また、演劇『翼をください』での先生の台詞はこうだ。「成績のいい子より、トラブルを解決できる子のほうがずっとすばらしい。」−学校教育の中では、他者との人間関係を調整する能力そのものは問われない。通信簿に「協調性に欠ける」とか書かれることはあるかもしれないが、それは副次的なものでしかなかろう。求められるのはもっぱら「教科書に書いてあること」と私との閉じた関係の中での解答能力であった。それはやさしさやコミュニケーションをむしろ排除することによって成立する「能力」の世界。しかし、現実の生活の中で「トラブルを解決できる」ことの方がずっとすてきだ。
 「やさしさ」と「頭のよさ」とが別ものとして、ときには相対立するものとして現れるようなことがあるとすれば、それはとても残念なことなのだ。むかし私は学校教育の中で「与えられた課題をこなす」という点については得意であったが、他面ではそれを鼻にかけて親しい友人関係を培うことに苦手であった。教師からの信用は得たが仲間からの信用を得られず、「成績いいやつってやっぱり性格悪いよな」みたいな陰口を叩かれたことがある。だからここで述べている意味で言えば、お勉強の成績はよくても頭が悪かった、ということだ。
 学校教育が常にそのようなものでしかないと言いたいのではない。もっぱら学校以外の場でやさしさを育むしかないというのでもない。学校が、変わるべきだろう。

教養は知識ではない

 神戸市の小学校の卒業式で校長先生はこんなことを言った。「震災で役立ったのは『知識』ではなくて『知恵』でした。自分で考えて行動する、そんな『知恵』を持った人間になってほしい。」−教養ということを、“知識に対する知恵”という対比の中で位置づけることも可能であろう。それはつまり「自分で考えて行動する」ための能力であって、どれだけものを知っているか自体が問われているのではないということだ。
 教養とは知識そのものの量や質の問題であるよりもむしろ、知識の使い方にかかわる。何かと知識を披露したがる人を思い浮かべてみてほしい。特に話しの筋と関係ないところで割り込んであれこれと述べ立てる人。「教養がある人」どころか、単なる「イヤなやつ」でしかないだろう。「私は他者よりも優れているのだ」ということを示すための知識は、教養とは関係がないのだ。また、その知識が専門的で難解なものであるほど教養が深いというものでもない。教養とはアカデミックな文章や試験の答案で試されるのではなく、生き方、日常の生活の仕方、いちいちのコミュニケーションの場で試され、かつ鍛えられるのである。
 もちろん、教養にとって知識が不必要だとか、両者が無関係だとか主張したいのではない。想像力は空想力とは違って、他者や社会の現実に対する認識を必要とする。だから、知識を欠いた想像力は弱い。逆に知識は、想像力に方向づけられ、まとめあげられることによって生かされると言える。そうすると、いかにも無味乾燥でしかなかったこれまでの知識の断片であっても、自らの生活活動における問題意識に従って取捨選択・整理がなされるならば、急に生き生きとした姿を現わすことになるだろう。
 「いよっ、国が見えたぞコロンブス」とか「意欲に燃えたコロンブス」とか語呂合わせで無理やり暗記した世界史の年号。“自分の文脈”の中に位置づけられないからこそ、無味乾燥だった。これ自体としては知識の断片にしか過ぎず、何の感慨ももたらさない。しかし同じ1492年にスペイン国内ではスペイン語(カスティーリヤ語)の文法が制定された、ことばによる国内の統治と国外への植民地支配が表裏の関係にある、日本もかつて朝鮮・中国等で日本語の使用を強制したし、そういえば沖縄戦では琉球方言を使った人がスパイとして日本軍に殺されもした……例えばこんな風に「ことばと権力」という自分の問題意識の中に知識が織り込まれると、それは自分によって意味づけられることによって精彩を帯びてくるし、みずからの「方言はダサイ」という感覚や態度にも変更を迫ったりすることになるのである。
 教養とはそのように知識を組織する力であり、またそれを実践の中に生かしていく力である。ふたつに分けてみれば、「自分で考える能力」とそれを「自分の行動に生かす能力」この両者を統合するものが教養なのだと言える。特に後者に注目してみると、いくら高級な思想を語っていても、その言っていることとやっていることとが大きく隔たっているような人を教養人とは呼べない。だから言い換えると、知識がその人の生き方や振舞いに深くかかわっている様子を、教養というのだ。知識それ自体は、教養ではない。
 付言すると、「教養」の上に「専門」がある、あるいは、教養を<専門知識>に対する<基礎的知識>のことだというというイメージが広く存在しているかもしれないが、それはたまたま大学のカリキュラム構成がそうなっているというだけのこと。ここで語っている「教養」とは、生き方に関わる知識・生きる知恵のことであって、「これだけの知識があれば教養は終了」とかいう性格のものではない。大学教育から「一般教養」という枠組みがしだいに消えつつあるが、「教養」の必要性が消え去ってしまったということでは決してない。

「自分で考える」ということ

 知識と実践とをつなぐものが、「自分で考える能力」あるいは「想像力」である。しかし突然「自分の考えを述べよ」とか「想像力を働かせよ」と言われても困ってしまうという事情はあるだろう。私たちにとっては、かつてそれらは禁止されていて、「これは真理だ」「これを憶えよ」と強制されてきたのだから。そうした環境の中では「感じる能力」さえ奪われてきたのかもしれない。
 私は一区切りの主題が終わると、学生に『どう思うか』と意見を求める。すると、『思うってどういうことですか』と応答に窮して反撃されたりする。何度きいても、これには唖然とする。彼の言い分は、「先生の講義をノートにとりました。知らないことだったので頭に入れました。それで十分でしょう」というのである。一体、思うことがなくて知ることができるのだろうか。
 実際、「思わなくて知る」ということを訓練されて、自然や社会に対する認識(についての知識)と自分の生活過程とは切り離され続けてきたわけだ。しかしやはり、「一体、思うことがなくて知ることができるのだろうか。」日常の会話でテレビネタや雑誌ネタのように右から左に流されるだけの知識が教養とは無関係であるのと同じように、授業で与えられた知識が単なる「新しい情報」としていくら蓄積されても、それは教養とは無縁のものだ。当人の感性や生活実践と切り離されている限り。「三無主義」とか「受動的」とか言われる学生をつくりだしたのは「最近の若者は…」と嘆いている世代に他ならないのだけれども、知識が単なる知識としてしか役立たないというあり方はいかにも寂しくはないか。
 ひとむかし前の学生は、教科書通りに授業すると怒った。教科書を読めば済むことなんだから。今の学生は、教科書通りに授業しないと怒る。−どこかで聞いた話で、ホントは作り話なのではないかなどとも思うのだが、リアリティはある。つまり、「言われたことを覚えりゃいいんでしょ」という大学生の態度は現に存在しているからである。余計(?)なことはいらない、というわけだ。
 関連していると思い出すことだけれども、「板書されたことしかノートに書かない」という風潮がある。高校生がそうするなら“受験勉強”としての効率性を高めようとしているのだな、といちおうの理解は可能だが、何で大学生がそうなんだ? 感じたこと、思ったこと、考えたことをどうしてメモしないんだろう? 「聞く」ということは、単に相手の話を情報として蓄積しようとすることではない。「自分として受け止める」というプロセスがないなら、テープレコーダーに録音して蓄積しておけばよい。
 アメリカのマンガで、大学の先生が教室に来たかと思うとテープレコーダーのスイッチを押して講義を流し始め、そのまま去って行くというのがある。次のコマ。学生はひとりもいなくて聴講席にはテープレコーダーだけがずらっと並んでいる……
 “肉声”であろうと“録音”であろうと、「真理はひとつ」だから伝達方法は何でもいいということなのだろうか。あとは、「覚えればいい」と。でも、お互いに「納得できた」ということこそが「真理」の「真理性」を根拠付けるような気がする。言いたいのは、「真理性」の成立にはあなたも参加しているのであって、「はいはい、これ覚えときゃいいのね]という態度は科学に対して失礼だということ。だから逆に、科学の側(センセイ)が「これ覚えときなさいね」ということで済ましてしまうのだとすれば、それはやはりイケナイのである。
 
実践としてのやさしさ

 「やさしい人」というと、人当たりがよく気配りもきいてあれこれと望みをかなえてくれる人、くらいのイメージだろうか。しかしこれは、自分にとって便利、都合がいいという多分にエゴイスティック(自分勝手)な評価の仕方であることが多いように思う。そうした意味での「やさしい」という評価を得たい、あるいは「冷たい」と思われたくないという思い込みが「頼まれたら断れない」という関係の仕方を選択させているとも考えられる。その場合の「やさしさ」という基準はむしろ私たちの精神の自由を抑圧し、コミュニケーションにとっての重荷となっている。
 だがここで述べようとする「やさしさ」とは性格とか行動のパターンのことではなくて、他者と関わりあういちいちの実践のことだ。この意味で言うと、やさしい性格だからといってやさしさを実践できるとは限らない。
 看護婦さんのやさしさ、というのを例にとってみよう。いつも笑顔で接することはだいじだろうが、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」といつも当たり障りなくなごやかにということだけでは不十分だろう。そこにコミュニケーションの深みはないし、必ずしも患者さんに安心感を与える態度ではない。疾病に関する理解はもちろん、それぞれが個性的である患者さんひとりひとりに対する理解を前提にしてはじめて、やさしさは実践できるのではないか。医者は「病気」を相手にし、看護婦は「病人」を相手にするという言い方に表現されているように、個々の患者さんの人間存在まるごとに対峙しなければならない。ファーストフード店でのマニュアル化され規格化されたスマイルと接客態度とは対照的に、実践としてのやさしさは常に個別的である。
 やさしさはまた相互的である。それは他者に対して一方的に奉仕する、与えるという態度なのではなく、自分の心を相手に開き、相手の心を開くという相互関係のプロセスのことだ。それは自己犠牲や施しではなく、相互に存在を受け容れようとする態度のとり方なのである。やさしさの実践の関係の中では、相手を受け容れると同時に自分も受け容れられる。だからこそそれは深いよろこびをもたらすのだ。そこでは《相互確証を通じての自己確証》が展開するから、自分自身に対する安心感を獲得することができる。逆に言うと、分かり合えたという実感も安心感ももたらさないような「やさしい」行動は、実は単なるポーズ、儀礼的な振舞いにとどまるであろう。そこにはおそらく、ウケをねらって「よく思われたい」とか「自分の優位性を示したい」という動機が隠れている。このへんのことは、異性に対する自分の振舞い方を思い起こせば、けっこう思い当たるのではないか。

やさしさを阻むもの

 お金や権力や優越感によってではなく、本来的な安心感はやさしさを実践する関係の中でこそ実現できる。「自分はこれでいいのだ」という、刹那的でない、安定した感覚は、もっぱら他者・社会との関係の仕方の中で「分かり合えた」という経験の蓄積によって獲得できるからだ。しかし現実には、実践としてのやさしさを阻む社会関係がさまざまに存在する。この世の中、対等で平等な関係よりも、企業や学校での支配−被支配や管理−被管理、競争主義的な優劣関係、そして障害者・老人・病気・部落・民族・女性などへの差別など上下関係の方が多かったりする。その分、自由なコミュニケーションの領域が圧迫されているのだ。
 “下”である自分の安全が脅かされるのを恐れて、あるいは内申書に何て書かれるかが不安で言いたいことが言えない、という類いの不自由はよくありそうこと。逆に自分を“上”において抑圧的に振る舞うのも、そうした役割を降りることができないという点で不自由である。人格的従属をともなうあらゆる上下関係は、そこにおけるコミュニケーションを貧しくする。つまり「お互いに分かり合えた」というよろこびの経験を奪う。そうした日常の不平等で不自由な社会関係を突破したところでこそやさしさは実践できるのだ。「突破」というのは、社会関係全体を変えてからでないとやさしくなれないという意味ではない。みずからを“上”にも“下”にもおかない関係の仕方を日常試みていくことで、“上下”の役割や意識に束縛されないコミュニケーションは可能なのだ。そして、そうした実践の積み重ねが抑圧的な社会関係を少しずつ変えていくことになる。
 しかしやさしさの実践のために必要なのは「心がけ」とか「善意」だけではない。それらが実践的な意味をもつためには、さまざまな抑圧的関係そのものへの社会科学的な認識がなくてはならない。そうでなければ、そもそも何が抑圧なのか、何が不自由なコミュニケーションなのかに気づくことさえできないだろう。自分がそうした関係のまっただなかにおかれているとしても、である。
 他者に対する理解や受け容れあるいは《相互確証》は、自己や他者の背景にある社会関係に対する理解を欠いては十全にならない。先に「“上下”の役割や意識に束縛されないコミュニケーションは可能だ」と述べた。だがそういう経験はなかなか偶然に訪れてくれるものではない。さまざまな差別や抑圧的関係の不当性を社会やその歴史について学ぶ中で感得し、日常のコミュニケーションを意識的に点検していくことによって可能となるであろう。

 次節では視点を変えて、生活の豊かさにおいてコミュニケーションの豊かさがどういう位置におかれるかという問題から、現在のコミュニケーションの在り方を検討したい。

第2節 「豊かさ」とコミュニケーション

「豊かさ」感の現在

 <日本は豊かか?>および<あなたは豊かか?>という問いそれぞれに対して、あなただったらどう答えるだろうか。そしてそのとき、何をイメージして、あるいは何を基準にして判断を下すだろうか。
  <日本は豊かか?>と問われたときに「ノー」と答えるのには困難を伴うと思う。みな、飢えるアフリカ、貧しいアジアといったイメージを映像を通じて知っているからだ。何はともあれ、食うに困っているわけではない私たちは豊かな側にいるに違いない。こんな私たちが自らを「貧しい」だなどと言ったりするのは罪深いではないか? それに何しろ、今や「金持ち日本」だったり「大国日本」だったりするのは事実なのだから。少なくともカネの面では、日本は豊かだと言わざるを得ない。私たち民衆の生活レベルを比べてみたとしても、比較すればやっぱり豊かだというのは間違いなさそうだ。餓死する人などめったにいないことだし。
 ちなみに、世界で10人に1人が慢性的飢餓の状態にあり、1日に3万5千人が死んでいる。この一行をあなたが読んでるあいだに少なくともひとりやふたりは餓死に至ってるのだと見積もっていいだろう。あとの3人は栄養失調(たんぱく質不足)、さらに残りの3人は栄養不足(カロリー不足)であって、要するに満足に食べていられるのは10人のうちの残りの3人であるということだ。そのほとんどがいわゆる「北」に属する私たち。
 では一方で、<あなたは豊かか?>と問われるとどうだろう。1989年の総理府の調査では、<豊かさを実感している>が22%、<実感していない>が69%という結果だった。<日本は豊かか?−イエス>と<あなたは豊かか?−ノー>という感覚のギャップは何を根拠にしているのだろうか。
 ひとつには、所得の階層構造が現に存在していることがあげられる。要するに、金持ちと貧乏人との格差ということだが、当然その格差が大きければ大きいほど、豊かさを実感できる人の割合は少なくなろう。一時9割を超えた国民の「中流意識」も減りつつあり、客観的にみた所得格差も大きくなっている。また例えば病気になったときの負担、老後に安心して生活を送れるかなどの社会保障の点でも満足のいく水準に達しているとは言えないし、しかも後退している。所得の格差を補正するための再分配の仕組みがいまだ不公平だということだ。今現在は人並みの生活が営めているとしても、将来に対する不安があれば豊かさ感に影を落とすことになる。
 ふたつには、《大量生産−大量消費》構造の中で欲求の再生産が肥大化した点である。「流行遅れにさせろ・捨てさせろ・ムダ使いさせろ…」という売る側の戦略に乗りつつみずからの「豊かさ」を追求するのだが、どれだけ消費しても満足感を得られないという悪循環にはまる。かつては「豊かさ」「人並みの生活」の指標が分かりやすく即物的に呈示されていた。すなわち、1960年代は『三種の神器』(白黒テレビ・冷蔵庫・電気洗濯機)が、1970年代には『3C』(カー・クーラー・カラーテレビ)がその指標であった。だが現在、私たちの狭い部屋がAV機器その他の電化製品でいっぱいになったとしても、いくらとりあえず必要な衣類が揃ったとしても、「ワン・ランク・アップの生活」への誘惑は続く。前にニンジンをぶらさげられて走る馬のように、追いかければ追いかけるだけ、目標は遠ざかる。そしてその結果、実はいくらモノを買い集めても実感できない種類の「豊かさ」が存在するのだということに多くの人が気づかざるを得ない状態に至っているのだ。〈モノから心へ〉と表現される感覚である。

モノは豊かになったが心は貧しくなった?

 〈モノは豊かになったが心は貧しくなった〉という言い方は一応説得力をもつ。モノはいっぱいあるのに何か満たされないもの、それは心だ、というわけだ。だがそうした〈モノ vs. 心〉という問題設定の枠組みを使うとしても、〈モノが豊かになったにもかかわらず心が貧しくなった〉のか、〈モノが豊かになったからこそ心が貧しくなった〉のか。両方の言い方にリアリティが認められるのではないだろうか。モノの豊かさと心の豊かさとの間にはどのような因果関係があるのかはまだ明確ではない。あるいは、〈心が貧しい〉と言うが〈心が豊か〉とは一体どういう状態のことだろうか。心の量が多いこと? それはヘンだ。そこで準備として、〈モノ VS. 心〉という二分法を一回離れて次のような定式を立てておこう。
 
       《豊かさ=生活活動の豊かさ》

 「豊かさ」ということばを「豊かさ」ということばで説明するのはずるいようだが、ここで強調したいのは、まわりにモノがあふれているとかいろいろなモノを所有しているとかに基準をおくのではなく、いちいちの生活活動・生活のプロセスがどのような性格をもっているのかというところに豊かさの基準をおくということだ。
 ものや心が「豊か」であったり、「貧し」かったりするのは人間の「生活」とのつながりのなかでのことであり、生活との関係を離れて「もの」そのものや「心」そのものが豊かであったり、貧しかったりするわけではないからである。
 《活動の豊かさ》だから、それは「生き生きさ」とでも言い換えられるかもしれない。睡眠から食事、通学、学校生活、サークル活動、アルバイト、遊びといった生活の全体が生活活動。そのひとつひとつの局面が生き生きしているかによって生活の豊かさは測られ得る。「生き生きさ」というこなれない言い方ではなく、それを「ゆとり」「自由」「多様性」「安心」等と表現することもできるだろう。
 私たちの生活活動には「ゆとり」がどれくらいあるだろうか。住環境や通勤や労働や学校教育という場のことを思えば、むしろ時間的にも空間的にも「詰め込まれている」のがおおかただろう。仕事や勉強がどれだけ「自由」であり得ているかといえば、「強制されてイヤイヤ」という側面がかなりある。生活の総体は、「多様性」に彩られているというよりは、選択の幅が狭く単調だ。日常の生活に安全性がたもたれ、また将来の生活に不安がないかという面についても、けっこういろいろと「安心」できない問題は存在している。 このように《生活活動の豊かさ》という視点で考えていくと、多様なモノがあふれているという条件は、それ自体としては必ずしも豊かさの前提ではなく、場合によっては豊かさに敵対するという側面を発見することができる。例えばデパートの地下にはお惣菜はあれこれ揃っているし、コンビニにはチンするだけで食べられる便利なお弁当が並んでいる。モノは豊かにあふれているし、それを手に入れることもお金さえあれば簡単だ。しかし、それらを「買ってすます」というやり方は果たして活動として豊かなのであろうか。私自身にとっては、お米を研ぎ、味噌汁や煮物なら自分で昆布と鰹節でだしをとり、材料をきざんで…という風に自分自身がコントロールする生活プロセスとしての食事がうれしく、また活動として豊かだと感じる。そういう風に、時間的にも精神的にも自分の生活活動に参加できる余裕があるということが私によろこびをもたらす。「だったら毎日全部自分でやればぁ」と言われたらそれはちょっと困ってしまうが。
 上の例は私の個人的な感覚だから一般化できはしないものの、食事、すなわち「たべごと」という活動は「何を食べようか」からはじまって、材料を買いに行き、調理し、食卓の準備をし、配膳し、お互いの存在を確認しながらいただき、後片付けをし…という全体であった。しかし現在、ファースト・フードのごとく食品を口に放り込むこと、栄養を摂取することに「食事」が矮小化されてそれが普通のことになりつつあるのは、もっぱら私たちの生活活動が「消費」というところに収斂していることの象徴だ。「買ってすます」というのはみずからの活動から、みずからがかかわり得るプロセスをその分放棄するということでもあるだろう。
 とりわけ食事ということについては、商品に依存する程度が高まれば高まるほど農薬や食品添加物にさらされる危険が大きくなる。また《大量生産−大量消費》の構造とは《大量廃棄》を必然的に抱える構造でもあって、さまざまな毒物が海洋や大気にまき散らされているのだが、食物連鎖の中でそれらは濃縮して結局私たちが口にすることになる。こうした事態は生活活動の「安心」という意味での豊かさを蝕む。しかしここでは、「買ってすます」という活動の仕方そのものがもたらす意味ということに問題をしぼって、さらに考えていきたい。「消費の自由」は果たしてどれほどに、私たちの活動を自由に、多様に、したがって豊かにするのか。

消費への抑圧

 〈モノの豊かさ〉−モノがあふれているということは商品があふれているということであり、その分私たちの生活活動は「消費」というところに限定されていっているということだ。商品は多種多様に揃っており、私たちはそれらの中から選択して手に入れることができる。しかしそれは「選ぶことしかできない」ということでもある。余暇や遊びさえ次々と享楽を「消費」するという枠の中に押し込められて、多様なようでありながらそこに限定されているという意味で不自由な活動となっている。ではその枠の中では、私たちは十分に自由であろうか。
 例えば私たちが衣類やAV機器やクルマやインテリアを買おうとするとき、選ぶ基準は実は「まわりの評価」ではないのだろうか? 「古いのはダサイ」「これを持っていれば一流」「これを選べばカッコイイ」といった評価基準はテレビCMや雑誌広告から得たイメージであって、だから逆にそうしたイメージに従わなければ自分はダサクて二流でカッコワルイと感じてしまうから、選ぶ。だとしたら、そうした選択行動は不自由ではないか。他人の目にどう映るかというイメージが、私たちの消費の仕方を抑圧しているのであり、したがって私たちの生活活動を抑圧しているのである。「こういうモノを持ってなきゃダサイよ、ヘンだよ、人並みじゃないよ」と。
 テレビや雑誌があおるようなモノや「トレンド」への志向をいちいち実現できる人はそう多くはないだろう。私たちはそんなにお金を持っているわけではない。なのに「豊かな生活」がまずもってモノによって与えられるというイメージは共有してしまっているのも事実ではないか。その意味では私たちみな、こういう風潮に参加していると言っていいのである。「豊かさ」がまずもって消費であり、したがってまずもって金で買うものだという常識が、常識であるがゆえに自覚されないまま、蔓延してしまった。コンビニのお弁当や洗濯機・掃除機など家庭電化製品が主婦の家事労働を軽減してそこに物理的な余裕や自由が生まれたという事実は大きい。しかし重要なのは、豊かさの基準がいつのまにか「活動」にではなく「モノ」に置かれるようになったという点なのだ。自分の豊かさはモノによって測られるという心性である。
 物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。物なしにはもう生きてゆけない。[中略]少ししか物を持たないパパラギは、自分のことを貧しいと言って悲しがる。食事の鉢のほかは何も持たなくても、私たちならだれでも、歌を歌って笑顔でいられるのに、パパラギの中にそんな人間はひとりもいない。
 「パパラギ」とは私たちのこと。ひとつのレトリック(言い回しの妙)ではあるが、私たちの社会が抱えている本質的な問題を端的に表現していると思う。私たちは、いわゆる「豊かな生活」を獲得するために、生活活動としての豊かさを犠牲にしている−そんな関連が、「豊かさ」ということばをめぐって存在しているのではなかろうか。総じて私たちの生活から余裕が奪われたのは、全体としては、効率性追求の原理にしたがったモノのシステムが整備されてきたためであろう。またそうしたシステムの中で、モノの所有ということが奨励され、「豊かさ」は個人単位あるいは家族単位がそれぞれ別個に追求すべき価値として確立してきた。だが、共同の関係の中でこそ発揮される活動の豊かさ、コミュニケーションという活動そのものの豊かさ、これらについては「豊かさ」ということばのイメージからは外されてきていたのではないか。生活活動の基本がまずモノとの関係におかれることによって、人との関係の仕方はどのような事態を迎えているのかを考えてみたい。

消費社会の孤独

 私たちの生活活動は常に他者との関係の中でなされている。一見ひとりで行なわれているようではあっても、「ひとりでやる」という他者との関係の仕方を選んでいるのか強いられているということであって、それ自体が社会的な存在のかたちである。ひとりでいることがそのまま孤独をもたらすのではないし、いつも集団の中にいるから孤独でないというわけでもない。だが消費社会における問題は、他者との関係がもっぱら商品を媒介にしたつながりに置き換わっていくという点だ。自己と他者との「つながり」が直接的に見えにくく、実感できない。生産者と消費者とのつながりが遠くて見えないということだけでなく、直接の対面的なコミュニケーションにおいてもモノとの関係が優先されてしまうという傾向である。モノとの関係が人との関係よりも規定的となり、そのことによって人との関係の仕方にモノが介入する。
 子どもたちの「孤食」と「個食」が以前から問題視されている。「孤食」というのは文字通りひとりで孤独に食べること。「個食」はいっしょにいるけどそれぞれが違うものを食べること。いずれも加工食品や冷凍食品、冷凍冷蔵庫や電子レンジといったモノのシステムが可能にした食べ方である。モノとの手軽で便利な関係が、子どもがひとりで食べることも、家族ばらばらのメニューを揃えることも支援した。今や、食事は共同の営みであることを必要としないのである。そうしたモノへの依存は、「共同性を発揮する場」すなわち「お互いがお互いを必要とする場」を失わせることとなり、そのことによって共同性という価値の存在も見えにくくなる。
 <モノより心>=豊かなコミュニケーションへの欲求

モノ語りの人びと

 こうした事態は私たちひとりひとりのアイデンティティ形成にも影響を与える。「アイデンティティ」とはおおよそ「私は何者であるか」くらいの意味であり、社会の中で果たす自分の役割に対する「自信」ということばに置き換えて考えてみてもいいと思う。他者との関係の仕方の総体が私たちのアイデンティティを規定するが、消費社会の深まりの中で、そこにモノとの関係が入り込んでくることになった。社会関係の中での自分のアイデンティティを、ミクロな人間関係のプロセスそのもののにおいて形成していくのではなく、もっぱらモノ・商品の所有によって確立しようとする人びとを、大平健は<モノ語り>の人びとと名づけた。
 彼らはみずからが抱える人間関係の困難そのものについてはうまく語れないのに、身につけているモノについてならば自分についても相手についても雄弁になる。
 「素肌を美しくするために」と何かを塗り付けたらそれはすでに素肌ではないのと同様に、「個性的になるために」と何かで飾り立てたらそれはやはり個性ではないのではないだろうか。個性を飾り立てるための材料はファッションやインテリアやクルマをはじめとするモノたちであったり、そうしたモノについての知識であったり、あるいは「英会話できること」という能力であったりするが、テレビや雑誌でうたわれているそうした風潮にのるというのは結局誰かのまねをするということにとどまるだろう。
  <モノ語り>の人びとは、人づき合いにおけるナマナマシイ感情、「ドロドロ」したものを洗い流し、言ってみれば人づき合いを丸ごと消毒しています。その結果、葛藤に対する抵抗力が落ちてくるのはやむをえないことのようにも思えるのです。「(心の)裸のつき合い」という言い方は確かに耳に快く響きますが、それが現実には人の心の中に土足で立ち入ることになりやすいということを、僕は「土足で立ち入られた」側の人びとである患者たちからいく度となく知らされてきました。
 <モノ語り>の人びとの人づき合いの方法は、親密さを得られないという欠点を持ちます。反面、それなりにやさしく滑らかな人づき合いを可能にします。<モノ語り>の人びとは、本来、孤立主義者ではありません。身近な人びととの円満な宥和を求めているとも言えるのです。

 気の合った仲間内だけでのいわば「閉じたやさしさ」は、まず排除の論理が働くがゆえに本来的なやさしさではなかろうし、傷つけ合わない、争わないという「なあなあ」の関係が維持されている限りで成立しているようなやさしき人間関係は、せいぜい表層的なものにとどまるであろう。

but 異質なものは排除する<閉じたやさしさ>では?
  一時流行した<ネクラ>と<ネアカ>の二分法は、なあなあ主義コミュニケーション  を囲い込む<ネクラ>排除の論理ではなかったか?

〈情報語り〉の人びと

 テレビネタ、芸能ネタ、ファッションネタ、クルマネタしか語らない人
  「誰かが言ってたこと」「何かに書いてあったこと」−−自分にとっての一種外在物  を流通させるだけ、という面では、<モノ語り>も<情報語り>も似ているのでは。
 

    傷つけることも傷つけられることもない。自分を語らない。
 コミュニケーションをとりあえず「情報の伝達」と規定することは可能なようにも思える。とりわけコミュニケーション・メディアが多様に高度になっている現在、送り手と受け手との間を情報が流れていく姿をコミュニケーションの基本として表象するとしてもそこにリアリティがないわけではない。しかし  「情報の伝達」でしかないコミュニケーションが日常的になっている。

 私たちにとってのコミュニケーションの課題とは、決して「いかにうまくことばを繰るか」ではない。「私って生来内気で友達と会話するのもたいへん」ということで劣等感を持って生きている人は気付かないかもしれないが、いかにも友人との会話が活発で楽しそうにしている人であっても、実はけっこう孤独感を感じていたりするものだ。会話の中身が当人にとっても相手にとってもどうでもいいことであるとき、つまり単なる芸能ネタやファッションネタであるとき、そのコミュニケーションは単なる情報流通なのだから《相互確証を通じての自己確証》をもたらすものではありえない。
 口下手な人も、おしゃべりも、本当に相手とふれあって分かり合えるようなコミュニケーションを求めているのではないか。しかし傷つけ、傷つけられる可能性の前に尻込みし、一方は沈黙で、他方は饒舌で、本当に言いたいこと・聞いてもらいたいことを隠している。しかしそのまま不安の中で孤独に耐えているのはつらいはずだ。

 誰かといっしょにいれば孤独ではない? そんなことはないだろう。自分の居場所がなければ、自分の存在を受け容れてくれる他者がいなければ、自分の存在に安心できる関係がなければ、いくらそばに誰かいたって孤独である。そしてしかも、ことばを交わしているから安心できるというわけでもない。豊かなコミュニケーションのためには何が必要なのだろうか。
 

第3節 働きかけること・受け容れること

コミュニケーションのよろこび

 竹内敏晴氏は、15歳まで耳がほとんど聞こえず、したがってことばによるコミュニケーションに参加できなかった。
 それまで私は、閉じこめられて孤立している私が、一所懸命声を発して相手にことばを投げつける、というイメージをもっていた。ところが、ことばが自在に相手と行き交ってみると、別々に孤立している人と人なんてものは、もともとありはしなかったのだ、と感じられてくるのだった。
 私とあなたとは同じこの場にいる、というだけですでに一緒の存在である。声を発して話しかけるということは、そのつながりを、あらためてゆすぶってみることで、すると今まで漠然としていたり隠れていたつながりが、急に具体的に姿を現わして返事がやってくる。そういうことではないか。その隠れているつながりの、こっちをゆさぶり、あっちを試してみる、それは、人と人とが共に生きているということのまことによろこばしい確認であった。
 ことばを交わすということは、こんなに素晴らしいことだったのだ! だけれども、私たちは日常のコミュニケーションでこのようなよろこびを味わうことができているだろうか? 
 「きちんと話しを聞いてもらえる」「大切にされた感じがする」−これは、統一協会から救出された元信者の多くが語る、接近へのきっかけなのだという。これは逆に言うと、彼らは日常生活の中で「きちんと話しを聞いてもらう」経験にも、「大切にされたと感じる」経験にも乏しかったのだということを意味している。だからこそ、正体もはっきりしないビデオセンターなどに何回か足を運ぶことになるわけだ。それがマインドコントロールによって自分を見失ってしまう入口であって、その心地よさもにせものなのだとしても、「自分を受け容れてくれる場所」「安心できる場所」だった。
 いま「彼ら」と表現したが、そうした孤独の状態は「私たち」が多かれ少なかれ共有しているものなのではないか。オウム真理教事件のさいには、マスコミはその異常性を暴き立てるし、私たちの多くも“正常な自分”の立場から「彼らはなんて異常なやつらなんだ」という感覚でながめてすましていたのだと思う。自分がそういう道に走るようなことなんてあり得ない、そういう自信はあるだろう。しかしながら、「異常なやつ」「ヘンなやつ」が一定の規模で増えたとするならば、それは単なる偶然ではなく社会的な現象であり、その同じ社会に私たちも生活しているのである。少なくとも日本という枠組みレベルでは、彼らも私たちも同じ社会関係のネットワークの内にあり、だから同じ社会的問題をかかえていても不思議ではない。
 薬づけの餌で育てられる養殖はまちは、そのうちの何パーセントかが背骨がグニュグニュに曲る。見るからに異常である。だが見るかぎりは正常なはまちたちであっても、背骨グニュグニュのものたちと同じ餌を食べているのだから、体内には同様に薬物が蓄積しているであろう。はまちなどに喩えるのは失礼かもしれないが、これに似たような関係が私たちの「正常」と「異常」にも見られるのではないか。つまり、私たちが「正常」の側にいるのは単なる偶然かもしれないということだ。それに正常と異常の区別は一種多数決みたいなものだから、内容的な基準は曖昧だし、明確な線引きもできない。
 都内の私大生3000人を調査した結果、その二人に一人は「精神不健康」な状態だったという報告がある。全世代平均が10%程度というのに対してかなり高率。「心配で眠れない」とか「生きがいを感じることがない」などの項目でテストするのだそうだ。理工系より文科系に多く、男子より女子に多いという結果に対し、「不安症状を起こしがちな年ごろにあって、特に進路や目標を定めにくい層に歪みが出やすいのではないか」と推論している。また、私が授業でアンケートをとると「誰かに助けてほしいほど寂しい」という選択肢に○をつける学生が毎年数人はいる。確かに「進路や目標」の曖昧さという事情も関係しているのだろうが、日常的な孤独の経験によって安心感をなかなか得られずにいることが最大の問題なのではなかろうか。

「会話」は成立しているか

 AさんとBさんのふたりの会話を想定しよう。AさんがBさんに話しかける。BさんはAさんの話しを聞き、それに対して、答える。そしてAさんは……−何をあたりまえのことを、と感じるだろう。だがここで改めて問いたいのは、「相手の話しを聞いてその中味にきちんと答える」という会話がそれほどあたりまえになされているだろうか、ということだ。
 喫茶店でおばさん三・四人がいっしょ、というシチュエーションでのことが多いと感じるのだけれど、すごい勢いでのおしゃべり。それぞれが熱心にからだを乗り出して聞いているように見えるが、それは実は聞いているのではなくて、今現在の話し手がいつとぎれるか、間合いをはかっているのだ。その証拠に、話題は連続しているようでも話しは自分の言いたいことを言ってるだけ。相手の話しの中味をきちんと受け止めて話すのではなく、言いたいことは最初から決まっている。物理的に音声が届いているということと、聞くということは別のことだ。話す人だけがいて、聞く人は誰もいない。
 電車内で女子高校生の会話を聞いていると、話題がジェットコースターみたいに展開していくので驚くことがある。論争ではないのだから別にきちんとした結論が出る必要はないのだが、一方が提出した話題は何ら検討されないままでも構わず別の話題に移っていくのだ。「質問」が平気で無視されたりもする。「おいおい、さっきの話しはもういいのかい?」などとこちらがつい心配してしまうほどだ。「聞いて、それに対して答える」というつながりがない。そうした会話は結局、話している内容はどうでもいいということを意味しているのだと思う。内容ではなく、「お互いに話しをしている」という事実こそが重要なわけだ。
 長電話もこのことと関連してはいまいか。中学生か、高校生か、電車の中でおしゃべりして別れぎわに「じゃ、8時に電話するね〜」などと約束する。夜に長電話し、そしてまた翌日学校で話し、電車の中で話し……ということが繰り返されるのだ。
 「面と向かっての会話と比較して電話のいいところは?」と学生に尋ねたら、「聞いてるふりができる」との回答がいくつかあった。なるほど、自分自身の電話とのかかわりを思い返すと確かに「ながら電話」の経験はある。電話では適当な間隔であいづちをうたないと「聞いてる?」と追求されるが、逆に適当にあいづちをうっていればそれは「聞いている」というサインになる。電話でだっていくらでも真剣な会話は可能だが、同時に「内容はどうでもいい」会話をつづけるにはピッタリのメディアでもあろう。聞いてるふりができるのだから。
 話題のジェットコースターの例も、長電話の例も、友人との関係の「つながり」にリアリティがもてない、だからつねにつながっていないと、会話がつづいていないと安心できない、そう解釈できるように思う。だとすると、不安であるがゆえに話しつづけるのだがそこで安心を獲得することはできない。「情報」は飛び交っている。だがそこに《相互確証を通じての自己確証》に至る契機は存在するだろうか。つまり、お互いに分かり合えるという経験の蓄積としてコミュニケーションが働き、「自分はこれでいいのだ」という自信を獲得できるだろうか。

「聞く」ことのパワー

 いったい、「聞く」とはどのようなことだろう。

 小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
 でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこの点でモモは、それこそほかには例のないすばらしい才能をもっていたのです。[中略]
 モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよっていた人は、きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。ひっこみ思案の人には、きゅうに目のまえがひらけ、勇気が出てきます。不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいてきます。たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれはなん千人もの人間の中のケチな一人で、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世の中でたいせつな存在なんだ。
 こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!

 私たちはふだん、こんな風に聞いたり、聞いてもらったりしているだろうか? 
 モモの働きに示唆されているように、「きちんと聞く」ということは、実は「相手の存在の受け容れ」のことだ。「発言の中味」そのものよりも、まず「そういう発言をしている相手の存在」を受け入れること。
 そして、きちんと聞いてもらえるからこそ人は自分というものを確認できる。
 だから逆に、企業や学校での「いじめ」の重要な一形態として「シカト」が存在していることにも現れているように、「無視」すなわち「人間関係の遮断」は人を不安にするのに最適な方法のひとつである。
 「活動としてのコミュニケーション」ということからイメージされるのは大概「話す」という活動なのではないかと思う。しかし見たように、「聞く」ことはそれと同等にコミュニケーション活動なのであり、しかもふだんあまり重要視されないだけに一層強調しておくべきだろう。

「からだ」をきちんと向き合わせる

 「この人とはあまりお近づきになりたくない」とかいう気持ちがある場合、たとえ表情やことばの上ではニコニコ、ペラペラができたとしても「からだ」は相手を向いていない状態にある。顔は相手の正面を向いているか、腰を後ろに引いたいわゆる「逃げ腰」になっていないか、そわそわと落ち着かずいろいろとクセを披露してはいないか。気をつけて自分のコミュニケーションを観察してみると、私たちの「からだ」は他者との関係をかなり正確に表現していることがわかる。
 だからこそ、例えば女性雑誌などでは“彼が本気か遊びかはここでわかる”とかいうテーマでボディ・ランゲージの解釈マニュアルが特集になったりするわけだ。しかし、その場しのぎの「相手にいい印象を与える方法」とか「相手をその気にさせる方法」とかをここで取り上げたいのではない。自分自身に対する理解の問題として考えたいのである。とりあえずは友好的な関係を保っていられる相手とであっても、それが相手とのコミュニケーションを本当に表現しているものなのか。ことばの上では何の争いもなくスムーズな関係ではあっても、本当に分かり合える・気を許せる関係であるのか。私たちはそのへんのことに割と気づきにくい。表面上の葛藤がないならとりあえず問題にする必要はないからだ。しかしそれゆえに、《相互確証を通じての自己確証》というプロセスも曖昧になってしまう。不安感がつきまとう。
 そういった関係の仕方にともなう不安感は、そこでは「ことば」だけが流通しているという事態に根拠を持つのではないか。私たちは「からだ」として生き、「からだ」として他者と関係しているのだから、コミュニケーションの基本的な課題はまずもって「相手とどう向き合うことができるか」のはずなのだ。「ことば」はその次というか、自然にそれにともなう。だからむしろ意識的に「からだ」のあり方を変えることによって他者との関係の仕方を変えることもできるはずだ。相手の眼をしっかり見ながら、というのは私も苦手だが、少なくとも顔を向けることは必要だろう。
「姿勢とは、私というからだが生きている形です。[中略]姿勢が変わるとは、人の生き方、他者への対応のしかた、それ全体が変わることなのです。」
 いつもうつむきながら歩いている人は、やはり世の中に対してうつむいているのだろう。一度まっすぐ前を見て歩くようにすれば、世界は違って見え、他者との関係にも自信がつくに違いない。いつも肩肘張って歩いている人は、きっとそうやって虚勢を張らなければ自分が保てないと思い込んでいるのだ。肩の力をスゥッと抜いてみれば、他者との関係はずっと楽になり、ことばもやわらかくなるだろう。
 人間のコミュニケーションにとっての「ことば」の役割を貶めようとしたいのではない。「ことば」は「からだ」の表現様式のひとつであるのだから、ことばによる働きかけにはかならずかならずからだによる働きかけがともなっているということをいちいち感じていくことがだいじだということだ。ことばがうまく相手に届かないときは、自分のからだがきちんと相手と向き合っていないのだということに気づいていこう。コミュニケーションのうまいへた以前に、まずはそのことが課題となるのだと思う。

友人と「友人する」

 本来、友人とは対等・平等の関係をもつことができるだろう。というよりもむしろ、対等・平等であるということが「友人関係」の“定義”であるといった方が適切かもしれない。それは、身分や、役割や、能力の差というところから解放された関係のことである。だからそれは差別とか、抑圧とか、権威主義とかいうこととは両立しない。だから常識的には「友人」としか言いようのない相手ではあっても、そこに媚びへつらいがあったり一方的な依存があったりするならばそれは友人関係を形成しているとは言えない。その逆もありうる。『釣りバカ日誌』のヒラ社員ハマちゃんは、社長スーさんと友人。そうなり得るのは組織上の上下関係とは無縁のところで関係し合うことができたからだ。
「たとえば母親と、あるいは教師とのあいだで、ぼくたちが「友人のように」という場合、まずそこに感じられるのは、ぼくたちがおたがいのそれまでの関係を定めていた固定された役割から解放されて人間として向きあうといった、そんな一種の自由の感覚だ。」
 教師とは〈教える−教えられる〉という一方的な関係から自由になることによって、母親とは日常の習慣化された(馴れ合いの)コミュニケーションを破ることによって、「友人」として語り合うことができる。
「母親にも教師にも語れぬこと、語ろうと思わぬことを語れるのが「友人」というわけだ。だがまたそうだからこそ、そうした事柄が母や教師とも語りあえた時、ぼくたちは相手を「友人」として発見できた喜びや驚きに打たれながら、コミュニケーションが更新された思いを抱くことになるのだ。」
 だが母親や教師を友人として発見する以前に、果たして私たちは友人と「友人する」ことができているのだろうか。
「たんに伝達−右から左への−ではなく、真に「語る」という言葉にふさわしいコミュニケーションのあり方を考えてみてくれ。この交流に入っていく衝動はなんだろう。なによりもまずそれは自分の感動なり体験なりを相手に伝えたいという欲望だ。しかしまたよく考えてみれば、僕たちはそのように相手に語り伝えようとする行為のなかでこそ、自分の感動なり体験の意味を自分自身に対してはっきりさせ、それを完成しようとするのだ。自分の体験を確固としてわがものにしようとするそのような努力こそ、一人の個性であろうとするぼくたちの自由の努力だ。」
 
 
 
 
 

おわりに

 本章の内容をふまえ、最後にみなさんにひとつのことだけ提言したい。日常のコミュニケーションの中で、私自身が努めていることでもある。

《優劣を競うゲームとしての会話》を避ける

 受験勉強を経て「知識」はけっこうある、なのに、当の「知識」がむしろ他者とのコミュニケーションにおいて障害になってしまっているというケースがこの《優劣競争ゲーム》だ。企業や体育会などもともと多くが《上−下、上−下…》という階梯が秩序をなしているような場でのことではなく、本来おそらくは対等・平等であるはずの友人関係という場に《上−下》を持ち込もうとする傾向である。
 自分の活躍できる話題へ必死に導こうとする。知ったかぶりをする。「知ったかぶり」というのは、自分から進んで知識をひけらかすことだけではなく、会話の中で知らないことがあっても「ああ、あれね」という態度でやりすごしたり、何がおかしいのかわからないけどとりあえず周りに合わせて笑っておいたり、ということも含む。もうちょっと高度になると、わざと相手が知らなそうなことばや言い回しを散りばめておいて、「それって、なに?」という質問がくると「ふふ、網にかかった」とかほくそ笑みながら「あ、知らなかった?」という風情でおもむろに解説してみせるというやり方もある。
 こうしたコミュニケーションへのスタンスには、そもそも周りが《優劣競争ゲーム》にあふれていて、何とか足をすくわれないように頑張るしかない、という一種の強迫が働いていることが多いのだと思う。その意味ではひとりひとりが被害者だ。でも、そんな疲れる関係の中にいつまでもいるのは不健康じゃないか。逃げ出した方がましかもしれない。
 他者より優れている、他者に勝っている、といういちいちの快感はわたしたちに一種の安心感を与えてくれるものではあろう。しかし明らかに、そうした安心感は安定的なものではない。常に優れていなければ、常に勝っていなければ安心感は再生産されていかないのだが、そんなことは続かないのだから。いったん負ければそれまでの安心感は帳消しにされてしまうがゆえに、常に競争関係の中で気を研ぎ澄ませておかねばならない。そもそも、相手よりも《上か下か》といった関係の中に自分を置くということ自体が、本来的な安心感−自分はこれでいいのだ−を阻害する。競争関係のなかでは、「自分はこれでいい」かどうかはいちいちの勝負によって肯定されたり否定されたりするはなはだ不安定な感覚でしかないからだ。
 こうしたゲームに明け暮れる人は、自分の発言によって話しが中断されて困っている人がいても気にしないし、場の雰囲気がシラケてしまっても気にしないし、話題に入ってこれない人の孤独にも気付かない。彼の晴れ舞台はむしろそういう人たちがいてこそ成立するという関係になっているという風にも言える。
 こうした《優劣競争ゲーム》は、小・中・高校という学校教育体制に組み込まれた学歴競争・成績競争の中でいやおうなしに植え付けられた習性ではある。私の学んだ小学校のある教師は、生徒に問題を与えて「ヨーイ・ドン」で解かせた。正解した先着二十名くらいまでは赤ペンで丸とその順位を付けてもらえる。私も必死に解き、その教師のところまで走って行ったものだ。で、先着二十名様以外はどうなるのかというと、放っておかれたのだ。そういう日々の競争の中で、「できる子」と「落ちこぼれ(落ちこぼされ)」は選別されていった。私はそこで、勝ち残ることの重要性と快感を身につけたわけだ。
 しかし、いちいちのコミュニケーションの中でみずからのそういう行動パターンに気づき、変えていくのは可能だ。気づくためのひとつのヒントが《やさしさ−思いやり−想像力−教養−頭のよさ》という発想であり、変えるための方法が社会学的想像力を高めていくこと、というわけだ。

 以上述べたことはまさしくコミュニケーションの「窓」であって、その入口付近をうろうろしてきた程度だ。引用した文献はみなお薦めのものばかりだから、できれば手に取ってほしいと思う。
 いや、それより何より、本稿の中味をあなたがみずからのコミュニケーションの中で実践し、考察してくれること、それが一番の願いだ。
 

コラム
 

「芸」としてのことば

 井上ひさしは、自らの文章のモットーとしてこう言った。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」
 だけどこれはもっと広く使える。
 「教える」という営み全体でこれは生かせないだろうか。だからこれは、大学などで教える私の目標でもある。少なくとも「やさしいことをむずかしく」語るような愚は避けたいし、「むずかしいことをむずかしく」語るのもやはりつまらない。
 そしてしかも、これは日常の私たちのコミュニケーションにおいても生きるモットーではないか。井上ひさし風に会話を展開していくことができたら、どんなに楽しいだろう。例えば、政治や社会のまじめでむずかしい問題をだたクソまじめに語るのが必ずしも誠実なのではない。「どれだけ正しいことを言うか」ではなく「何を話せば、どのように話せば共感できるか」がそこでは課題のはずだ。
 森毅はどこかで、「会話は芸だ」と言っていた。その通りだと思う。決まり文句や教科書通りのことを話してもつまらない。「相手を楽しませてやろう」という心がけがコミュニケーションを豊かにする。そこには「思いやり」が働くからだ。
                 (P.)

本の読み方・話しの聴き方

 いちいち自己表現をすること。本を読んでいて、線を引くというのは重要だ。そこからさらに、その“線”を引いた自分が何を思ったのか記録していこう。最初は「?」とか「!」だけでもいい。そのうち、どのように「?」「!」なのかを自分のことばで表現できるようになればもっといい。要するに、「書いてあることを覚えよう」とかいう気分から脱して、「書いてあることに対して感じよう、考えよう」という気分で書物に向かうことが大事なのだと思う。
 「ここはどうもおかしいんじゃないか」とメモしておいたからこそ、それに対する回答が与えられる。疑問がそもそも存在しなければ当然、回答は存在しない。書物を理解して「読み取る」ということは、決して「うのみにする」ということではないのであって、どれだけ当の筆者とコミュニケーションをとれるかという問題なのだ。疑問や感動はそのたびに書き留めよう。それが、書物に対する「積極性」の表現の仕方である。「覚える」という受け身の態度とは違う、「自己表現」のやり方を少しずつでも身につけよう。
 だから授業でもそうだ。「授業そのもの(板書されたこと・発言したこと)の記録」は試験では役に立つのかもしれないが、それだけではあなたの「教養」は形成されない。だいじなのは、「そこで何を思ったか、疑問だったか」を記録することなのである。
                        (P.5)

差別とことば

 小学生がこんなことを言っているのを聞いた。「『びっこ』って言っちゃいけないんだよ。身体障害者って言わなきゃいけないんだよ。」なるほど、小学生のレベルとしてはなかなかではないか。もちろんこのことが彼に偏見や差別がないということを保障するものではない。しかし少なくとも、「発言する」という行為が社会的な実践であってそこに善し悪しがあるのだということを意識しているというのはひとつ重要な点であると思う。「言っていいことと悪いことがある」というヤツだ。ことばは現実の差別構造を再生産していく力をもっている。
 今度は大学生。「おい、シンショー」と盛んに呼び付け、侮蔑的なことばを投げかけているヤツがいた。最初は何のことかわからなかった。だがそれが「身体障害者」の略称であるということに気付いたとき、私は茫然とした。それが現に身体障害者であるならそれはまたそれで恐ろしい事態だが、その「シンショー」ということばは身障者ではない、いじめられっこ=弱者に対する蔑称として用いられていたのである。ことが<言い換え>ですまないということに改めて気づかされる。
 ことばとその使い方に反映している社会的な差別を意識化していくこと。フェミニズムの成果を学んでみるといろいろと発見があると思う。
            (P.7)

「家族」を売る商売

 人間関係そのものをサービスとして商品化したのが、例えば「レンタル家族」だ。
 「お母さん、肩凝ってるわね」「ありがと。いい気持ちだよ。エリちゃん、何を読んでるんかな?」
 父の十三回忌を前に、久しぶりに娘夫婦と孫が里帰りした。しかし……この約三時間の一家団らんの費用はしめて十五万円ナリ。実は東京・下町に住むKさん(72)が「レンタル家族」部門をもつ新宿のエンターテイメント業者に派遣を頼んだ。娘を演じたのは主婦の平間洋子さん(28)、婿が流通業者の滝口正明さん(29)、孫が保育園児のエリちゃん(3つ)。三人はむろん、まったくの他人だ。

 依頼者は主に六、七十歳代。希望は断然、息子夫婦より娘夫婦。甘えたい、愚痴をこぼしたいのがその理由とか。
 「最近、心の満足感を求める方が多いようで、便利屋さん代行業に『心』をプラスしたサービス業と心得ています」と業者。目下、約四十組が“家族”の来訪を待ちわびている。
 ここで述べられている「心」とは何だろうか。
                      (P.12)

あいさつの効用

 誰でも、話しかけたのに返事が返ってこなかったら、不安になる。単なるあいさつでも。いや、「単なるあいさつ」だからこそ、それはコミュニケーションの端緒がうまくいかないということであって、十分に私たちを不安にする。しかもあいさつの関係がうまくできるか否か以前に、「あいさつをするべきかしないべきか」という段階での葛藤もあるだろう。とりわけ日本人は慣れない相手との関係のとり方に苦労する場合が多く、それが対人恐怖症の発生と結びついているのだという。実際、声をかけようか、どうしようか、何を話題にすればいいかな、でもタイミングを逸しちゃったし、今からあいさつするのも……とお互いに牽制し合っている場のぎこちない、ピリピリとした雰囲気は私もしばしば経験している。もっとスマートにいかないものだろうか。
 「日本のあいさつは長い。もっと短くしたい」と言うのは、あいさつ好きを自任する東大助教授・上野千鶴子さん。「例えば食事中、グラスに水を注いでもらった時。『サンキュー』『ウェルカム』は一息で言える。『ありがとう』『どういたしまして』は音節が多すぎて重ったるい」上野さんはあいさつを「自分を守る儀礼」と考えます。「あなたに関心を払っていますよ」という信号を発して緊張を低め合い、最低限の有効関係を作る手続きだと。欧米の人がまめに声をかけ合うのはこのため。日本社会もだんだん欧米型に変わってくると予言します。

向き合わないからだ

 大学での授業後、自分の感想か何かを話すために寄ってきた学生がいた。しかし彼のことばが私に向けられているのだと理解するまでにある時間がかかった。彼はからだ全体も顔も眼もすべて、私に対して斜め四五度ほどの角度をつけたまま話していたからである。はたから見れば、彼は黒板に向かって何やら話しかけていたわけである。しかし耳に入ってきたその話しの内容は、「今日の授業で扱ったことは云々」みたいなことだったから、とりあえず受け答えはしてみた。気持ち悪かったが、それが彼にとっての精一杯の私に対する働きかけだったのだろう。
 またあるとき、電車内で“前後になって会話するふたり”というのを目撃したことが或る。一方は真正面を向き、もう片方が相手の背中に向かって話しかける。会話の中味はおおよそ聞こえたが、別に仲が悪いということではないらしい。ことばそのものはよくある友人同士の会話を成立させていた。でも何かそこの空間が歪んでしまったかのようでいたたまれず、とにかく早く電車から降りてほしいと願ったものだ。自分に向き合ってくれない相手の背中に話しかける彼が、なにかあわれだった。
 これらは少々極端な例かもしれないが、“極端でない”例はいくらでも発見することができるし、実は自分でもたまにはやっているのである。
                   (P.20)

英会話のイデオロギー

 在日米軍が多数乗降する駅が近くにある。

 人間関係の問題は当の現実の人間関係において解決すべきであって、宗教やセミナーなのどに安易に逃げ場を求めても、それは単なる幻想であったり、マインドコントロールによる安心感であったり、一時的な
 
 

 話すからには自分をきちっと表現しなきゃいけない−だからときにそれは“命がけ”−と感じる人と、話すことと自分とをとりあえず切り離せる−まわりに合わせることがまず大事−人との差が、かつての「ネクラ」と「ネアカ」を分けた基準なのではなかろうか。でもどちらにしても、共通していることがある。「ホントウに言いたいことは言えない」という点だ。それを沈黙で隠すか、饒舌で隠すかの違いである。では私たちが「ホントウに言いたいこと」を言えないとすればそれはなぜか? 禁止されているから。ほかに理由が考えられようか。

 きちんと「ありがとうございます」どころか「ありがとう」も言いにくくて「どうも」「ども」ですましがちな自分を恥ずかしく思うことがあるが、たとえごく短いことばやちょっとしたしぐさであれ、あいさつはその場をなごませる。「あなたの存在を受け入れていますよ」というメッセージのやりとりがあいさつだからだ。
 
 
 

第4節 メディアの中の人間

「ことば」とはまずもって「発話」という行為であったということ
最初のメディア=文字
ことばと権力
英会話のイデオロギー

「情報伝達」モデル

 コミュニケーションは「情報の伝達」ではない。コミュニケーションを「情報の伝達」というところで把握することに意味がないわけではないが、それはコミュニケーションの問題を“効率性”とか“機能性”の枠の中に限定する。どういうことか。

             メディア
      発信者            受信者
           メッセージ・情報

 とりあえず上のような図式でコミュニケーションをとらえることには疑問が生じにくい。『社会学事典』だってたいていこういうところでまずはコミュニケーションを規定している。私たちの日常の会話などを思い起こしてみよう。確かに、メッセージ・情報のやりとりをしている。身振り・手振りや目配せの仕方だって、「ノンバーバルな情報」として意味を付与すれば、「情報の発信」の中に括れてしまいそうだ。でも、こうした抽象化は例えば「旅」の本質は「空間の移動」だと規定するのに似てものごとをつまらなくする。確かに旅には必ず空間の移動が伴うだろうが、それを本質規定としてさいようすることには疑問があるだろう。同様に、コミュニケーションには情報の伝達が伴うがそこで見失われるものはないか?
 極端な話、コミュニケーションを「情報の伝達」とすることによってパソコンの本体とプリンターのコミュニケーション、なんていうところまで概念が拡散していく。パソコンの本体とプリンターとは実際に「情報のやりとり」をしているではないか。してみると、そこで捨象されているのは、それが何よりも「人間活動」であるという点だ。一見、「情報の伝達」という言い方それ自体は、コミュニケーションの本質の抽象化として適当であるかのようではあるが、そこには機能主義的な限定がある。子どもの頃の友人との「遊び」を思い出そう。“いっしょに何かをする”こと自体がそこでのコミュニケーションではなかったか? 長電話。情報の伝達のためではあるまい。情報の伝達は行なわれているにしても、その中身ではなく、“長電話”であるというそのこと自体が、人間関係を更新するあなたのやり方なのではないか? 現在のあなたのコミュニケーションが「情報の伝達」という捉えかたにフィットするとすれば、それが《目的−手段》関係の中にとらわれ、コミュニケーションが何らかの目的のための「機能」「手段」となっているからである。それはあなたの生活活動を豊かにするだろうか。コミュニケーションという活動そのものの内に、すなわち人間関係を日々更新していく活動そのものの内に喜びを見出せないとしたら、その生活は豊かであると言えるだろうか。「豊かな情報伝達」が「豊かなコミュニケーション」なのだという言い方に違和感があるとすれば、それは「情報伝達」ということで括れない「コミュニケーション」概念への予感があるはずである。
 発信者がいて、受信者がいて、その間を情報が伝達されるというコミュニケーションのモデルをつい私たちが受け入れてしまうのには、コミュニケーションの変容が主に「メディア」の変容として現われてきているという物質的・社会的な基盤が存在する。メディアすなわち媒体を媒介としたコミュニケーションの仕方が一般的になっているがゆえに、発信者と受信者とをまずは切り離して発想することが自然になる。日常のコミュニケーションでは「発信者」と「受信者」とが明確に分れてしまうことなどないのだが、身体的な近接性はもはや前提とならないため、両者を概念的に分離させてしまうことにためらいはなくなるのだ。コミュニケーションの問題は引き離された「発信装置」と「受信装置」の間のメディアを流れる情報の問題に還元されてしまう。もうひとつ、イデオロギー的基盤についても言及しておかなければならない。それはすなわち「情報処理機械としての人間」ないし「情報処理システムとしての社会」という人間観・社会観である。イデオロギーとは“特殊なくせに普遍を装う考え方”のことなのだが、コンピュータの時代に照応するこうした人間観や社会観がコミュニケーションの情報伝達モデルを支えている。そしてこれはさらに「近代」特有の《目的−手段》関係による社会編制に根拠をもつだろう。このへんについては節を改めて論じるが、コミュニケーションを「情報の伝達」ととらえることの適切さと不適切さ、その両者が社会的・歴史的な根拠をもっているのだということを心の片隅においておいてほしい。

コミュニケーションの身体性=働きかけ+受け入れ(ボディ・ランゲージなどで問題にされる姿勢や動作の意味解釈の問題はおいといて)
 竹内俊晴−−「待て」ということばをどうしてもかけられない人−−からだで表現す       ることから
       「姿勢=私というからだが生きている形」姿勢が変わるとは、他者や世       界との関係の仕方が変わること
       −−机に突っ伏して授業を聴くやつ
         あっち向いて話しかけてくるやつ
         前後に並んで会話するやつ
 

電話=「聴いてるふりができる」メディア=からだを向き合わせなくてもいい
携帯電話=「おれはデキル人間なんだぞ」見せびらかしたいのは、サラリーマンなら仕事で有能・多忙ということだろうし、学生ならば「ぼくって、あれこれあってね」という雰囲気なんだろう。
ポケットベル=「友達には不自由していないよ」
ウォークマン=「おれのことは放っておいてくれ」
テレビ=テレ・ビジョン(遠くの映像) 湾岸戦争や阪神大震災 疑似イベント/代理体験 「黙って面白がって眺めていろ」
 非常に多くの人たちが、テレビによる経験と直接的な経験を混同していた。そのため、経験それ自体が、テレビを見るという唯一の行動へと統合されていった。そのことに誰も気づいていなかった。チャンネルからチャンネルへと切り替え、スポーツ番組は刑事ドラマやアフリカの内戦のニュースとはまったく異なる経験だと思い込み、8000万の視聴者が、別々の薄暗い室内に坐っていながら、同じ時間にまったく同じ活動に参加していたのである。テレビを見るという活動に。
 その光景は、まるで、全国民が三つの舞台を持つ巨大なサーカスの前に集まっているようなものだった。自転車の曲乗りを見ている人たちは、ゴリラや炎を食べる人を見つめている人たちとは異なる経験をしていると、信じ込んでいた。だが、すべての人が同じ一つのサーカスを見ていたのだった。いや、もっと悪いことには、我々は皆別々の居間に坐っていたのだから、まるで隔離されたます席の中に入れられているようなもので、一緒に見ている事柄について、互いに反応を確かめ合うことすらできなかった。すべての人間が同じ時間に同じ行動をしていながら、それぞれ孤立していた。
 なんと異様な情況であろうか。
 (ジェリー・マンダー『テレビ・危険なメディア』)
 ファミコン=操作人間化、
ニューメディアとコミュニケーション−−繭化
「今日の若者がアンビバレントな気分を抱いている[…]すなわち、自分ひとりで気ままに生きたいという気分と、外的社会と情報のケーブルはつないでおきたいという気分が、同一人物のなかで共存しているのだろう。[…]近未来の電子メディア装置は、このアンビバレントな要求を同時に満たしうるとも言えよう。たとえば、パソコンやワークステーションが、彼らの個室の電話と一体化していく。それらが、一本の光ファイバーで結ばれ、外界とのパイプになれば、パソコン少年だけではなく、電子メディア世代のふつうの人びとも、自分の好きな時に、最も居心地のよい自分の部屋からどの場にも出向かないで、外の社会と情報のみでつながって生きていける。」
 グロテスクだなあ、というのが私の第一印象だ。
 

面白さ=大切さ

 「まず学生はなんのために大学に来ているかと問いたい。しの第一は知識を得るためのはずである。また、教授たちの学問に対する姿勢や情熱を学びにきているはずだ。それが人格形成につながるのだ。それこそ大学教育の基本だろう。そしてそれは自分の将来の進路、すなわち人生を形づくる。ところが、いまの学生はおもしろい授業を聞きに大学にやってくるという。それならテレビや寄席、イベントなどに行けばいいわけで、大学で教えることが学生にとっておもしろいかどうかをわれわれ教師が考える必要はない。そもそも、ここでいう「おもしろさ」とは興味深いという意味ではなくて、単におかしいという意味なのだ。
 実際、大学にはおもしろい教授もいれば、つまらない教授もいる。だからといて、おもしろくなくてはいけないという論は立つはずもなく、おもしろいか否かはその教授のキャラクターであって、教えている内容には無関係である。教授の生まれつきの性格なのだということを認識しなければいけない。また、おもしろい授業が学生にとって役に立つかどうか、すなわち学生が大学に勉強に来る主目的にかなっているかとも無関係なのである。」
 「面白い」に相当する英語は fun と interesting だろうが、この吉村氏の場合、「学生の求めているのは fun だ」、と決め付けている。だが、私はそうは思わない。
 

 別の視点から言うと、生活活動においてかつては必然的に結合していた労働とコミュニケーション−モノとの関係と人との関係−は相対的に分離するということだ。コミュニケーションは生活活動に内在的な必要からしだいに解放され、それ独自の問題領域を形成することになる。
 したがって《相互確証を通じての自己確証》というプロセスがうまく働かない場面が 

 物質的な面で生活を豊かにしたい−−二九%
 心の豊かさやゆとりのある生活を重視したい−−五七.四%    (93年5月総理府調査)