"何もしない"優しさ

須川正隆

優しい、といわれる。何をした訳でもないのに、何故か優しいといわれることが
ある。
理由を聞くと何も言わないから、と言われた。私にはそれが解らない。
相談を持ちかけられた時、何かかしらの悩みを打ち明けた時などに多い。
私は相手の話に対して『うん。それで。』とか『そうなんだ。』とか。相槌しか
打たない。
なのに優しい、らしい。何か自分でその人の悩みを解決しようなんて、想ってい
ないのに。
そういうことが、現実の世界ではなくてインターネットの世界で私はよく体験する。

初めて言われたのは、4年くらい前だった。インターネット上で知り合った顔も
本当の名前も知らない人からだった。
色々話しているうちに親しくなり、時々悩みとか愚痴とかを聞いていた時のこと
だった。
突然、相手の人が言ったのだ。『○○○(私のHNが入る)って、優しいよね』と。
『え?』と思った。何の発言に対して、自分のどういう姿勢に対して優しいと
いっているのか解らなかった。
ただ私はその人の話を聞いていただけだし、自分から『こうしたらいいんじゃな
い?』という事も無い。
酷い言い方だが、私には関係のないことだし、深く関わるのは嫌だったからだ。
結局理由もわからず、私の心の中にちょっとした引っ掛かりを残してその会話は
終った。
今、その人がどうなっているかは解らない。その後半年くらいして、PCが壊れ
た、といって連絡を断たれて以来一度も会っていない。
本当かどうかは解らないが、どうでもいいことだからその時も私は『そうなん
だ。可哀相。』とかありきたりなことを言った記憶がある。
その時も、優しい、といわれた。でもこの時は。言葉面は確かに優しいのかもし
れない、と納得した。
その後も色々な人で出会って、親しくなったりした。今でも連絡をしている人も
いる。
そういう人たちはみんな揃って私を『優しい』と評価する。何故なんだろうか、
と考えた。
何をする訳でもない。何を言う訳でもない。淡々と相槌を打つだけの私の何処が
優しいのか。
相槌を打つだけなら、誰だって出来るのに。

その疑問は意外なところで解消された。インターネットの世界ではない、現実の
世界で。
大学に入って以来、久しくあっていなかった友人に会い酒を飲み交わしながら話
していた時のことだ。
『お前も相変わらずだなぁ。優しいって言われるだろ。』そういわれた。
酒の勢いもあってか、今まで強く聞けなかったことをはっきりと聞いてみた。
『何もしてないのに、なんで?』
彼は笑いながら答えてくれた。『何もしないからだよ』と。
ああ、なるほどと思った。どうやら、何もしないことが優しさの一つの形になっ
ているらしい。
少なくとも私は現実の世界においてはやさしいなどと、評価されたことは殆どない。
事なかれ主義で他人は他人と割り切っているからだ。突き放すような発言も少な
くない。
現実の世界においては、これは優しいなどとは間違っても評価されない。
しかし、私が優しいと評価されたのインターネットの世界。
ここでは、相手の顔も名前も素性も解らない。全く赤の他人のまま親しくなるわ
けだ。
当然、親しくなる過程でお互いの名前や顔を明かしたり、現実の世界で会う人・
場合もある。
けれどそういうものが一切ないままに親しくなれば、自分のことを気軽に話せる
友人になる可能性も高い。
顔が見えないから、顔色を伺わなくていい。名前を知らないから気軽に名前を呼
べる。素性を知らないから、多少の失礼な発言は許される。
そんな中で自分の言っていることをまったく遮らずに、聞いてくれる友人がいたら。
悩みを真剣に聞いてくれる友人がいたら。自分のことだけを見てくれる友人がい
たら。
そういう願望をかなえるのに一番適している人間は私の様な『見かけだけ聞いて
いるフリ』をする人なのかもしれない。
私は自分から何か話題を振るようなことをしない為、更に好都合となる。
自分が話し続けられるし、自分が話している間、相手はずっと聞いていてくれる。
何もしないこと。何も言わないこと。それが、相手に安心を与える。
そう、相手に安心を与える優しさなのだ。何もしないこととは。

当然、全ての人がこうであることはないと思う。事実、私に対して『答えるだけ
じゃ、会話じゃない』と言ってきた人もいる。
それが正しい私の評価だと思っている。不思議と私を優しい、と評価する人とは
あまり長く関係は続かない。
しかし、私をそう評価した人とは憎まれ口を利くまでの仲になっている。
本音をいう事。それは優しくはないのかもしれないが、間違っていることではな
かったと思っている。
私は納得したし、疑問は解消しているが、悩み続けている。
『何もしない』優しさを私は止めた方いいのか、それとも本音でぶつかり合った
方がいいのか。
インターネットという薄暗がり越しに話される会話。顔も名前も素性も知らない
人との会話。
それはまるで『懺悔している人』の、それにとても似ている。
私はそう思う。